雨降って地固まる~中国との100日交渉

雨降って地固まる~中国との100日交渉

Meeting in China
先日、安崎会長の中国で出版予定の新書コンテンツからピックアップして掲載した「1杯100万ドルのウオッカ商談手をたたいて快哉!」は、若頃の安崎会長が一人前のコマツ人としてソ連での「雨降って地固まる」経験談でした。
経験談といえば、本書にほかにも「雨降って地固まる」経験談が数多くあり、今日は中国官僚との大喧嘩の部分をピックアップしましょう。この大喧嘩は、コマツが中国と仲良しになるための素晴らしい前奏曲だったと言って良いと思います。

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 …IISTの修学旅行で、アメリカ各地を巡った後、国務省高官から中国に関する話を聞き、米中の国交回復も近いなと予想していたので、ニクソン大統領(当時)訪中のニュースにも、日本のマスコミほどは驚かなかった。
 そして、1972年、日中の国交が回復され、1978年には日中平和友好条約が調印される。この当時は、同じ共産主義国家でありながら、ソ連と中国の仲はよくなかった。条約に覇権条項を「入れる、入れない」と論議が長引いた記憶がある。中国は、当時のフルシチョフ第一書記のソ連を「覇権主義」と批判をしていた。
 日中国交回復の年、田中首相と周恩来総理との会談で「迷惑」という言葉が問題となった。歓迎式典で周恩来総理が挨拶した後、田中首相は戦争責任に触れ、「過去数十年にわたって、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明する」と詫びたが、この中の「迷惑をかけた」という表現が、「軽すぎる。そのようなひと言で片付けられることではない」と非難を浴びた。
 私はこのことを、日本工業倶楽部の会報(2015年4月号、第252号)に書いた。矢吹晋氏の『日中相互誤解の濫觴』という論文の一部を紹介したのである。矢吹氏の論文は言う。「田中角栄首相の挨拶の中で“迷惑をおかけした”は、中国語では、“添麻煩”。これは、婦人のスカートに水がかかる程度の意味で小さくて軽い、と周恩来首相との間で論争があった。何とか喧嘩を収めた後、毛沢東主席との会談で、田中首相は“日本の言葉は中国から入ったとはいえ、これは万感の思いを込めてお詫びする時にも使う誠心誠意の謝罪です”と説明した。毛沢東主席は“喧嘩をしてこそ初めて仲良くなれます。わかりました。迷惑の言葉の使い方はあなたの方が上手なようです”と、贈り物として『楚辞集註』6冊を渡したそうだ」という内容だ。

 私にも、中国のお役人との間に喧嘩の経験がある。コマツと中国の技術交流の結果を、技術提携契約としてまとめ、中国に小松ブルドーザを生産する工場を建設しよう、という話になったときのことである。コマツと技術進出口総公司との契約交渉は難航して100日を費やした。
 中国では文化大革命が終結し、改革開放の時代に入っていた。鄧小平の「鞱光養晦」政策の始まりである。外国からの技術導入も、案件によっては問題がなくなり、我々の交渉が本格的に進んだ。私は建機第三部長として、ソ連、中国を担当していた。この交渉の途中、谷牧副首相が枚方のブルドーザ工場視察で来日した。私は、大阪のホテルから工場まで、先導のパトカーの後をノンストップで走り、ご案内した。後で知ったことだが、谷牧北首相は、中国工業近代化のため、当時のめぼしい外国の工業技術の視察を指導していたとのことだった。コマツの大阪工場でも、真剣かつ熱心に視察し、積極的に質問をされていたことを記憶している。
 さて、コマツと中国の技術提携交渉は、外国貿易省傘下の技術進出口総公司がプラント建設、技術導入契約の窓口であった。交渉の場には、機械工業部の技術者が背後に控えていた。コマツは海外事業本部の弓野専務が団長、私が副団長で契約条文の交渉に当たっていた。100日という長い交渉の間、弓野専務は時々帰国した。専務が留守の間は私が団長役を務めた。
 中国側の契約書原案は既に印刷されており、「これにただサインするだけだ」と公司の担当者は言ったが、中国側に都合のよい一方的な条項が多く、とてもすべては受け入れがたい。そこで、条文ごとの交渉が開始された。このやり方は、対ソ連の契約でも経験済みであった。また、私は同様の契約にあたっていたアメリカ会社の担当役員と情報交換を行っていたので、譲れない条項は、丁寧に理由を説明して、粘り強く交渉を続けた。最大の問題は、提供技術の範囲と対価、指導料であった。
 あるとき、先方の担当者から「安崎さん。あなたは、たかがブルドーザの技術提供ぐらいで、中国側に高い金を払えと要求するが、唐の時代の遣唐使に漢字や仏教を教えた中国は、日本から料金などもらわずに、ただで教えてあげたのですよ」と真顔で言われた。私はびっくりして相手の顔をのぞき込んだが、相手はケロッとした顔ですましていた。
 契約はいよいよ最終段階に入った。ほぼ合意が成立し、明日は調印式の段取りを相談しようというところまで漕ぎつけた。ところが翌日、全く別の人が現れ、「今までの交渉を白紙に戻す。日本企業との契約で、このような契約条項は認められない。交渉はやり直しだ」と宣言した。背後を眺めると、先方の技術者たちは困った顔をしているだけで、誰も口を開こうとしない。私は、さすがに頭に血が上った。生涯最高の怒りがおそってきた。三国志にあった「馬上憤死」の場面が一瞬頭をよぎった。心臓が破裂するのではないかというくらい激しく鼓動した。顔は真っ赤になり、呼吸も一瞬止まりそうになった。
「あなたは、100日の間、我々が真剣に交渉してきた結果を、中国政府を代表して、全く無視するのですか? とんでもない話だ。これでは、我々は交渉を取りやめ日本に帰ることにします。中国の近代化に貢献したいと、国産化を提案した、我々の善意を踏みにじるような交渉のやり方をするなら、この話はここで終わりだ」と言い放ち、当方の同僚や、先方の技術者たちが驚いて止めるのを振り切り、怒りに震えた呼吸を整えてから、一人退出してしまった。その日は宿舎に戻り、帰国のための荷造りを始めた。
 翌朝、先方から連絡が入った。「皆さん、ご一緒に来てください」とのことだった。怒りがまだ収まらない私だったが、帰国の挨拶はすべきだと思い直して出かけて行ったが、昨日の担当者はいない。技術者組の団長から、「先に合意した内容で話がつきました。契約調印の準備をしましょう」と言われて安堵の胸をなで下ろした。
 河合社長に連絡を入れ、社長と弓野専務に契約調印のため訪中してもらうことを決め、その日取りを決めた。社長と弓野専務の訪中を待ち、調印が無事終了した。調印式後の宴会に先立ち、先方の技術者組団長の副局長に「安崎さん。東洋の君子は、あのように顔を真っ赤にして怒り狂ったように話すものではありませんよ」と諭された。私は何も言えず、ただうなずくしかなかった。後で聞いたら、私のあまりの剣幕に、中国側がびっくりして矛を収めたと言うことだった。
 政治家と違い、喧嘩の仕方が下手な私の、若気の至りの結末であった。

不打不相交~和中国的100天商务谈判

前些日子分享了安崎会长将在中国出版の新书摘选”1杯让谈判增值100万美元的伏特加~请勿盲目模仿”,是安崎会长年轻时作为一名小松人在苏联的一段“不打不相交”的经验之谈。
说到“不打不相交”,本书里另外还有不少经验之谈,今天就分享一段他与中国官僚之间的一场精彩大战。这场大战,可以说是一段促成了小松与中国相知相交的精彩的前奏曲。

…参加IIST修学旅行、遍访美国各地之后,从国务省高官关于中国的发言当中,我预感到中日恢复外交关系之日已经为时不远了,因此当我看到当时的尼克松总统访问中国的消息时,并没有像日本的媒体那么震惊。
 之后,1972年,中日恢复了外交关系,1978年两国签订了中日和平条约。当时,苏联和中国虽然同为共产主义国家,关系却已经产生了裂痕。记得双方围绕是否将霸权条款写入条约里产生了分歧,讨论因而被延长。中国批判当时的赫鲁晓夫第一书记领导的苏联实行“覇权主义”。
 在中日恢复外交关系那一年,田中首相与周恩来总理之间的会谈中,“迷惑”这个词成了一个问题。周恩来总理在欢迎仪式上致辞后,田中首相提及战争责任问题并进行了道歉:“在过去的数十年里,我国给中国国民添了极大的麻烦(麻烦的日语:迷惑),我对于此段历史,再次表示深切的反省之意”,然而,道歉发言里的“添了麻烦”这个表诉受到了中方的非难“那么轻描淡写的一句话不可能大事化了吧”。
 我曾在日本工业俱乐部的会报(2015年4月号、第252号)上写过这件事情,介绍了矢吹晋氏的题为《探寻日中相互不信任的原点》(日语书名:《日中相互誤解の濫觴》)的论文里的部分内容。矢引氏在论文里说:“田中角荣首相的讲话之中的“迷惑をおかけした”,这在中文里的意思是“添了麻煩”。听起来只不过像把水撒到了女人裙子上的程度,给人以轻描淡写的感觉,因此与周恩来总理之间产生了争论。双方争论终于平息下来之后,在与毛泽东主席的会谈之中,田中首相就这个日语词做了如此说明:“日本的语言虽然是来自于中国,然而,这个词也能用于百感交集道歉之时,用于诚心诚意谢罪之中”。毛泽东主席回答:“不打不相识,明白了。看来还是你们善于使用迷惑这个词”,并作为礼物,向田中首相赠送了一部《楚辞集注》6冊。

 我也有过与中国的官僚争吵的经验。那是小松与中国进行技术交流,已经做好了技术提携契约,正要达成协议在中国建设工厂以生产小松推土机的时候。关于这份契约,小松与中国技术进出口总公司之间的谈判工作进展不顺,所以整整花费了100天。
 文化大革命结束了,中国进入了改革开放的时代,邓小平的“韬光养晦”政策随之开始实施。如此一来,从外国引入技术方面的有些问题得以解决,我们的谈判工作也得到了实质性的推进。我作为建机第三部长,负责苏联、中国方面的工作。在这场谈判工作之中,谷牧副总理来日视察了枚方的推土机工厂。我负责自大阪的酒店到工厂的向导工作,跟在前面开路的警车之后,马不停蹄地忙前忙后。后来我得知,为了推进中国工业近代化,谷牧副总理主导了前往外国视察先进工业技术之事。记得他在小松的大阪工厂,也极为认真热情地视察现场、并积极地提出问题。
 却说小松与中国的技术提携谈判,负责成套设备以及技术导入契约工作的窗口是外国贸易部属下的技术进出口总公司。在谈判现场,中方有机械矿业部的技术人员待命。小松方则是访中团长、海外事业本部的弓野专务以及副团长的我参与契约条款的谈判工作。在长达100天的谈判期间,弓野专务时而回国,专务不在的时候,由我代行团长之职。
 中国方的契约书草案已经打印了出来,“在这上面签字就行”,中方公司的担当者如此说,然而很多条款的内容都是利于中国方面、对于日方而言难以完全接受。因此,我们开始逐条进行交涉。这个方法,来自于与苏联签署契约时积累的经验。另外,关于那些小松与美国公司契约中内容相同的部分,我与美国公司的担当董事互通了信息,因此针对不能让步的条款,我耐心细致地向对方说明理由、进行了持之以恒的交涉工作。最大的问题在于提供技术的范围、中方支付给小松的价格以及技术指导报酬。
 有一次,对方的担当一本正经地对我说:“安崎先生,你们最多不过给我们提供推土机技术而已,就向中国索取高额报酬,而中国向遣唐使传授了汉字和佛教,却并没有向日本要钱、免费教给你们了哦”。我吃惊地探头看他的脸色,他像啥事没有似的不了了之了。
 契约的谈判工作终于进入了最后阶段,合意几乎都已经达成、正在打算第二天商议签字仪式的事情。然而到了第二天,来了一位从没有露过面的人,宣称“至今为止的谈判完全取消。与日本企业之间的契约里,这样的条款不能放入。谈判必须从头开始”。看他的背后,对方技术人员们虽然脸色犯难,但是谁也不开口。这还了得,我一下子冒火了。前所未有的愤怒向我袭来。一瞬间,三国志里王朗马上愤死的场面涌上心头。心脏就像即将破裂似地剧烈跳动,脸色发红,呼吸也几乎要停止了。
“你能代表中国政府,全部无视我们辛辛苦苦100天,脚踏实地、认真谈判得出的结果?太荒谬了。这样的话,我们也停止谈判、回日本。我们怀着为中国的近代化做贡献的意愿,提出了小松产品在中国国产化的建议,而你却如此践踏我们的善意,这话就到此为止”,我丢下这些狠话,不顾大吃一惊的我方同僚以及对方技术人员们的阻拦、整理了一下气得哆嗦的呼吸、一个人离开了。那天回到宿舍、开始打点行李准备回国。
 第二天早上,听说对方有消息来了,是“请大家一起来”。我虽然怒气还没有平息,不过想到回国之前的道别还是应该进行的,于是就去了。昨天那位担当不在场。技术人员组的团长说:“就按照先前达成共识的内容办。准备签字仪式吧。”,听了他的话,我放下了心头大石。
 接下来我联系了河合总经理、与他商量后决定让弓野专务赶赴中国出席签字仪式、并定下了日程。然后等来了弓野专务、顺利地完成了签字仪式。在签字仪式后、宴会开始之前,作为对方技术人员组团长的副局长对我谆谆教诲:“安崎先生,东洋君子不应该那样满脸通红、勃然大怒地说话哦”。我除了点头认可什么也说不出来了。后来听说,我那异乎寻常的汹汹气势让中国方面大吃一惊后偃旗息鼓了。
 没有政治家的手腕、没有吵架的技巧,幸得血气方刚成全了我。

“和華”の三周年記念交流会出席、80歳誕生日をお祝いしてくれました

“和華”の三周年記念交流会は、私の80歳誕生日の翌日に開催されました。

孫さんに誘われて、3月4日、六本木で開催された日中文化相互理解の雑誌“和華”の三周年記念交流会に顔を出してきた。Cultural exchange meeting

日本人、中国人、合わせて100人ぐらいの人が集まった。多彩なプログラムは中国茶の茶芸、香芸披露、試飲に始まり、張春祥、盧思両氏の京劇、馬艶さんの書画、張晨さんの華道、柴廣義氏の影法師、皮影戯、三田徳明氏の雅楽などの実演,漢服、和服、旗袍の披露と豪華版だった。観賞しながら私は隣席の老人とゴルフ談義、2月にタイで9連戦してきたと話した。あなた年齢は?80歳ですと答えた。相手はびっくり、9日連続のゴルフをやるの?プロの試合も4連戦だよという。そこで私のタイでのゴルフを説明した。リゾートに20か所ぐらいのゴルフ場がある。毎日違うゴルフ場に行くが、皆良いコースだ。朝早起きして朝食後、ホテルから車で40分ぐらいのところに出かける。8時スタートなら、18ホール続けて12時ごろ終わる。シャワーを浴びて昼食、ホテルに戻り近くでマッサージ2時間。昼寝して少し休むと夕食に出かける。

タイはアジアの観光先進国だ。日本に来る外人は少なかったが、政府も最近やっと観光業が大切だと認識し直し、年間の外国人観光客が2000万人を超えた。タイは、国は小さいがかなり以前から4000万人の外国人観光客が訪れる。それだけ風光明媚、親切,インフラも整っている。食事もまずまず、物価も安い。タイ式マッサージも素晴らしい。あまり若い人はツボが分らない。力は強いがツボを外せば痛いだけ。経験のある人に当たれば、足や肘をうまく使い手足・腰・肩・首・頭とツボを心得て実に気持ちよくゴルフの疲れをその日のうちに取ってくれる。これなら9連戦もできる。このマッサージが2Hでチップを入れても1500円ぐらいと高くない。上海とタイとマッサージはどちらが良いでしょうかね。

また、交流会はちょうど80歳の誕生日の翌日だったので、祝いでくれました。
80歳の大台に乗りましたが、まだいろんなことを楽しみたい。
今、やっと60歳になったと思いながら、健康寿命を保ちたいですね。

“和华”举办了三周年纪念交流会,适逢我80岁生日的翌日。

应孙桑邀请,我于3月4日参加了在六本木举办的以致力于日中文化相互理解的杂志“和华”三周年纪念交流会。

日本人和中国人、共100人左右到场。节目丰富多彩,继中国茶艺、香艺表演、试饮之后是张春祥、盧思两位的京剧、马艳桑的书画、张晨桑的花道、柴廣義氏的影法师、皮影戏、三田徳明氏的雅乐等现场表演,还有汉服、和服、旗袍秀,甚为豪华。我一边观赏一边和邻座的老人聊起高尔夫的话题,告诉他我2月份去泰国打了高尔夫、9连战。他问我年龄、我回答80岁,他很吃惊,说职业球员比赛也才4连战,而你竟然连打9天高尔夫?我对他讲了我在泰国打高尔夫的详细情况。娱乐地大约有20处高尔夫球场,我每天去不同的球场,感觉每处都不错。早上起床吃饭后,从酒店乘车约40分钟到达目的地。8点钟开始,连续打完18球洞、12点左右结束。冲个淋浴、用完午餐后回到酒店、然后去附近的按摩店放松2个小时。睡个午觉休息后、出去吃晚饭。

泰国在亚洲属观光业先进国。却说日本,以前来日的外国人很少,近些年政府总算重新认识到观光业的重要性而开始有所作为,年间外国人观光客超过了2000万人。不过也还不如泰国,国家虽小,然而许久以前外国人观光客就已高达4000万人。不过也难怪,泰国确实风光明媚、给人以亲切感、况且基础设施齐备。吃的东西也过得去、物价又便宜。泰国式按摩也相当不错。年轻人不懂穴位,蛮力挺大、手一离开穴位,感觉就只有疼痛。而碰上有经验的按摩师灵活运用脚和手肘,针对手脚、腰、肩、首、头部拿准穴位调理,那么打高尔夫球后的疲劳感当天便能消除,9连战也便不在话下。如此按摩2个小时,费用倒也不贵,包含小费1500日元左右。上海和泰国相比,不知哪边按摩水平更高呢?

另外,交流会那天适逢我生日的第二天,在会上受到了众人的祝福。
虽已跨入80岁高龄队伍,我却感觉尚有好多事情乐于去体验。
现在的心情是,我终于进入60岁了,要勤于锻炼,不求活得多长,只求活得健康,维持健康寿命。

老害は世界のあらゆる分野で退治しなければ—老壮青の融合

老害は世界のあらゆる分野で退治しなければ—老壮青の融合

8月31日に日本人の若者と会いました。29日に孫さんの会合があり二日続きで刺激を受けました。05

私の頭にいつもあるハイブリッドの考えの一つに年代の老壮青の融合がある。自分は高齢者に分類されるだろうが、意図して老人仲間との付き合いのみならず青の若者世代との会合にも出かけて彼らとの付き合いも大切にしている。

 

8月29日に和華の会合で自分の来し方を話してきた。日中両国の若い世代の人達が話し相手である。たまたま友人に誘われて翌日の8月30日に今度は日本の学生達数人を相手に彼らのNPO活動参加の考えなどを聞いてきた。02

 

青年世代は日中両国とも我々老世代の実像には詳しくない。1950年代から中国に関心を持ち続けてきた私の話は、両国の若者にとって歴史の一齣を自分の耳で聞くという珍しさがあるだろう。また日本の高度経済成長を身をもって体験してきた我々の仲間たちの実体験は自分が生まれる前の歴史を当事者から直接聞くという面白さがあるだろう。

翻って私の二日間の体験から得た若者像は次のようなものだ。

1.中国の若者の方が前向きでずうずうしいぐらい力強い、日本の若者は優しいがひ弱い。こんな私の先入観が覆された。
懸命に生きようとする両国の若者にさほどの一般的違いがない、という事実の発見ができた。話し相手が社会から学びたい、世のために働きたい、という気持ちの強い若者エリート層だったからだと言い切れない気がした。03

2.理想と現実のはざまで問題をどう解決していくのかと、いう方法論には、個人差が当然ある。我々の時代でも外側から堂々と改革に立ち向かう人達と、私もそうだったが、内側で改革に全力を尽くすほうが現実的で効果的という人に別れた。どちらでもよい。信ずるところに従ってがんばれと言ってあげたい。

3.老と青、世代間の対話は社会の発展に重要だが、老世代が政治経済の分野で支配力が強すぎるのはこの障害になる。04

日本で国会の政治家の若返りは少し進んだが地方はまだまだ。経済界は遅れている。40代や50代の社長がもっと増える方が改革が進むのではないか。

老害は世界のあらゆる分野で退治しなければ。

アメリカの大統領候補が二人とも老人なのは世界が歓迎していない。内政干渉はできないのだが。壮年世代がリードし、老青両側とのハイブリッドのバランスをとるとが望ましい。

日本では政治の優先課題が選挙を意識しすぎて老人優先、若者軽視となっているのがうまくない。実際に老から青に優先度を移していくことに反対する老人は少なくない。選挙の結果を怖がる政治家の現実感覚が古くなりかかっていないだろうか?

老害须从世界所有的领域清除—老壮青之融合

继8月29日孙桑组织的交流会,30号又见了几位日本年轻人,连续两天颇受了一些刺激。

老壮青的融合,这个混合型思维之一已经常年扎根在我脑海里。我虽已属高龄者,却并没将自己的交往范围固定在老人朋友圈,有机会也与一些年轻人会合,我认为与他们之间的交往是弥足珍贵的。

8月29日我在和华组织的交流会上,向日中两国年轻人介绍了自己的过去和现在。出于偶然,受朋友之邀翌日的8月30日又见了几位日本学生,就参加NPO活动方面听取了他们的意见等等。

日中两国的年轻一代,对我们老一代的真实情况知之甚少。于两国青年而言,亲耳从我这样一位自1950年代开始就始终关注中国的老人讲诉一些历史片段,应该是件新奇的事情。另外,了解从日本的高度经济成长期一路走来的吾辈身体力行的经验,从当事者那里直接听讲自己出生前的历史,想来对他们来说也该是件颇有意思的事情。

回顾这两天的体验,青年们留给我的一些印象挥之不去,略记如下。

1.我本认为中国的青年有些毫无顾忌的强劲,而日本的青年比较和善而显孱弱。然而这两天的所见所闻却颠覆了我这个先入观。因为我发现一个事实,那便是两国的青年都一样地拼搏,这点并无什么差异。与我交流的年轻人说想从社会学到东西、为世界而工作,其强烈的志愿让我深受感染,看来远大志向并非年轻精英层的专利。

2.在理想和现实缝隙里的问题该如何解决,这个方法论当然是因人而异。在我们那个时代,既有从外到里大刀阔斧实施改革的人,也不乏有我这样认为竭尽全力实施内部改革才更现实更能取得成效的人。其实两者不分优劣,信则灵,信哪个便竭尽全力实践则可。

3.老与青、不同世代间的对话于社会的发展至关重要,而老一辈在政治经济领域的支配力太强却会成为社会发展的障碍。
在日本,国会政治家的年轻化稍有进步,但是地方上还不行,经济界也尚落后。40多岁或50多岁的社长增多了,改革才会前行。
老害须从世界所有的领域清除。
美国两位总统候选人都是老人,我认为这不会被世界所欢迎。虽说有点干涉内政之嫌,我认为让壮年一代为首,两侧配以老、青,如此混合型的布阵才更为平衡更为理想。

日本也在政治优先课题上过于注重选举,因而也呈重视老人、轻视青年的不良状态。
事实上反对将优先度从老转青的人也不在少数。
唯恐选举结果不佳,这种政治家的现实感难道不陈腐老朽吗?

三等分主義の1である「世のため人のため」の黒竜江省での交流活動

黒竜江省での日中交流活動サマリー

 

当研究会のブログは約1ヶ月半休んでましたが、安崎会長は休まずにいました。三等分主義の1である「世のため人のため」に、4月5日に出発して中国黒竜江省へ行ってきました。さっそく、いただいた随筆をレポートとして掲載しましょう。

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私が上海で出版した「聚変」の交流会で2014年に莫先生に応援してもらったことを思い出します。上海人民大学の経営大学院にたくさんのビジネスマンや学者などが来てくださり、夜遅くまでの熱心な交流会でした。

詳しい報告は、こちらからご覧いただけます▼
11月、本研究会安崎暁会長と莫邦富先生、上海で講演交流会に出席
『企業の持続的発展の可能性』テーマ討論会が、上海で開かれる

お蔭でこの「聚変」はよく売れて中国人の読者からの反応もありました。

本年4月このような読者に誘われて黒竜江省に行き、省都ハルビンで同様の交流会をやってきました。題名を「論語と算盤」としてハルビン工業大学で講演しました。日本の明治維新直後の偉大な経営者である渋沢栄一が当時の仲間たちに資本主義経済の会社でも利益の追求と同時に経済倫理を忘れてはだめだと算盤だけでなく論語の精神を企業経営に取り入れろと主張しました。
今日のグローバル企業に求められている「コーポレート・ガバナンス」に通じるテーマです。

主催者から次の機会にまた話に来てくれと頼まれました。
30年ぶりに訪問したハルビンが人口も増え高層マンションが林立する大都市に発展していることに驚きました。北京―チチハル間の新幹線の駅や地下鉄もできていました。これから、高速道路も増設するとのことでした。

黒竜江省では戦争直後の混乱により生じた日本人の中国残留孤児も多くおられました。

次回来るときにハルビン工業大学の名誉教授になってくださいとも言われました。
その任に非ずですが、黒竜江省と日本との交流は北京上海ほど盛んではなく時々行って民間交流に貢献するのも必要かと考えながら帰ってきました。(続く)

黑龙江省的日中交流活动简要

 

本研究会修博大约一个半月了,然而这期间安崎会长并没有休息,而是践行着三等分主义之1“为世界为他人”,于4月5日出发去了黑龙江。现将会长发来的随笔作为活动报告公之于众。

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2014年,我邀请了莫先生到上海为我出版的《聚变》一书的发表交流会助阵。记得在上海人民大学经营大学院的交流会上,众多商界人士、学者等精英汇聚一堂,气氛热烈,交流一直持续到晚上。

点击以下链接可见详细报告▼
11月、本研究会安崎暁会長と莫邦富先生、上海で講演交流会に出席
『企業の持続的発展の可能性』テーマ討論会が、上海で開かれる

承蒙莫先生的支持,《聚変》一书得以畅销并在中国读者中引起了反响。

今年4月,我接受读者邀请,出席了在黑龙江省的省会哈尔滨举办的同样的交流会。
在哈尔滨工业大学,我做了以“论语和算盘”为题的演讲。“论语和算盘”是伟大的经营者渋沢栄一氏提出的理论,他在日本的明治维新之后不久就对当时的企业家们倡议,资本主义经济体制下的公司在追求利益的同时也不可忘记经济伦理,企业不仅要将赚钱之术、还需将论语精神纳入经营管理工作之中。
这个主题其实与时代赋予当今全球化企业的“公司治理”之主题可说颇有相通之处。

主办方表示,希望还有机会邀请我去。
我这次哈尔滨之行是时隔30年的再访,目睹人口增长、高楼林立、已经焕然一新成了大都市的哈尔滨,惊叹不已。北京和齐齐哈尔之间既通了高铁也通了地铁,据说今后还将修通高速公路。

黑龙江省,在战争刚刚结束的混乱状况下还养育了许许多多的日本残留孤儿。

主办方还希望我下次去当哈尔滨工业大学的名誉教授。虽说大任难当,不过回程途中我考虑,黑龙江省和日本的交流活动远不如北京及上海搞得那么有声有色,若有机会我是应该再去那里,为中日民间交流活动贡献一份自己的力量。(待続)

「余生三等分主義の1 世のため人のための活動」(続き1)~教育及び日中交流支援

1月2日に安崎会長へ出した年賀メールが玉を数枚も引き寄せれるような投げ煉瓦になれるとは思いもよらなかった…今日も頑張って一枚運んでまいります。

日本語を読む — 余生三等分主義の1 世のため人のための活動(続き1)~教育及び日中交流への支援活動

 

Hometown support news

Hometown support

(先日の続き)そういうわけで、以後小中学生、高校、大学を通じ多くの先生に教えられ、お世話になった。私の世のため人のための活動分野の第一は恩返しのつもりの教育分野である。母校の支援が中心である。母校の後輩の奨学金支援も考えたが、孫悟空の毛のごとく立派な先生が輩出するのを応援する方が個々の後輩学生の支援より成果が大きく、長続きすると考えて、故郷徳島の小中学校の先生表彰事業のスポンサーを務めたりしている。
私に政治家志望を諦めさせた小学校の先生、田舎の中学生に井の中の蛙とならず広く外国への関心を刺激してくれた中学校の先生、“お前はものになる”といつも励ましてくださった校長先生、勉強の仕方・世界観・考え方のヒントをいただいた大学時代の教授達、立派な先生達は将にわが人生の師である。また、先日お会いした海軍兵学校出身の高校時代の恩師は「我々学徒出陣世代は、焼け野原、人心荒廃の日本を再興するには教育以外にない、教師となって次の世代の活躍に期待するのだと決心していた」といわれた。多くの教え子はこの先生の誠心誠意の薫陶を受け、60年以上前の教えを忘れていない。“でもしか”先生ではだめだ。願わくは今の子供たちも立派な先生に鍛えてもらい日本の未来を輝かせてほしい。これが教育分野を選んだ理由である。

Japan-China at Shanghai

日中交流at上海

第二の分野は日中両国の民間交流の応援である。

個人的にも私は大学入学の60年以前から中国と日本の関係に関心が深く仕事でも多くのかかわりを経験した。

その時々の両国政府間の関係はさまざまであるが、民間の草の根ベースのお互いをよく知り合うという活動の応援を続けたい。

私は格別の親中派でもなければ、嫌中派でもない。仕事上では70国ぐらいを訪問した。回数の多いのはアメリカ、ソ連・ロシア、ドイツ、中国、アジア・欧州諸国である。それでも、世界や日本にとって日中両国民がお互いに相手をよく知り合うことは今非常に重要だと思う。

2014年資本主義の実体験がない中国の民間企業家・ビジネスマン・学生を対象に上海で「聚変」という中国語の本を出版した。教師・反面教師として我々の経験を参考にしてほしいと考えたからだ。

With Ms Sun

和華交流会at東京

 

孫さんという素晴らしい在日中国人と出会い、彼女の「和華」という雑誌を通じた民間交流事業にも関心を寄せている。
両国政府と関係なくこの仕事が続くと良いなと念願している。

 

以下続く

———-For Chinese readers below—–以下中文阅读———–

1月2日发给安崎会长的贺年电子邮件想不到竟是一块能连引好几块玉的抛砖……今天也加油搬过来一块。

阅读中文  — 「余生三等分主义之1 为世界为他人的活动(续1)~对教育以及中日交流的支援活动

续前文)之后,承蒙许多老师的殷切教诲与关照,我度过了小学、中学、高中、大学时代。可以说是教育成就了我,因此我将报恩教育事业定于为世界为他人活动分野之首位,中心内容则是对母校的支援。最初曾考虑过以母校后辈为对象的奖学金支援活动,但是仔细想想,若是换个支援方式,能促进拥有如孙悟空毫毛那般神通广大本领优秀教师的层出不穷,不是比支援一个一个后辈学生能取得更大的成果并更能长久吗?如此考虑,我便把赞助的对象放在对故乡德岛小中学教师的表彰事业上。
忘不了那位断了我成为政治家念头的小学老师、那位教导我不甘做井底之蛙并激发我对外国关心的中学老师、那位总勉励我“你一定会大有作为”的校长先生、还有教会我学习方法并在世界观以及思维方式的形成过程中给我启示的大学时代的教授们,这些优秀的教师无疑都是我人生之师。前些日子当我与一位出身于海军兵学校的高中时代恩师相见时,他说:“在那个轮到我们的学徒出阵的时代,他们面临的像是一片被野火烧光的荒野,当时我想能让人心荒废的日本再兴,除了教育已无他物,因此便决心成为一名育人的教师,期待看到学子一辈大显身手”。受过这位老师诚心诚意熏陶的众多学子都没忘怀他60多年前的教诲。他与那些仅把教师当成饭碗而成为教师之辈相比,有着天壤之别。衷心希望今天的孩子们也能师从优秀的老师,锤炼成才,开创光辉的未来。这便是我选择了教育分野的理由。

第二分野是对日中两国民间交流的支援。就我个人而言,我从60年前进入大学时便非常关注中日关系,之后的工作也在中日之间经历了摸爬滚打。虽然那时两国政府间关系变幻莫测,但我始终情愿站在民间草根立场,坚持支援以深化两国相互理解为目的的交流活动。想说明一点,我算不上特别的亲中派,也非嫌中派。我因工作访问过大约70个国家。访问次数最多的有美国、苏联・俄罗斯、德国、中国等亚欧各国。尽管如此,我至今依然认为对世界及日本而言,增进中日两国人民的相互理解极其重要。2014年我以没有实际体验过资本主义的中国民间企业家、商界人士以及学生为读者层,在上海出版了中文著作「聚変」。我希望我们的经验能作为正反面教材对他们具有参考价值,这个念头促成了这本书的诞生。
我还结识了一名优秀的孙姓在日中国人,关注着她通过杂志「和华」展开的民间交流事业,希望这项工作能不受两国政府关系的影响,坚持不懈,长盛不衰。

待续