安崎会長、浙江省健峰HRサミットや徳島県人上海交流会で講演 ~ 日中草の根交流活動報告

安崎会長、浙江省健峰HRサミットや徳島県人上海交流会で講演 ~ 日中草の根交流活動報告

Kenpo HR Summit 1

Mr. Anzaki Satoru lecturing at Kenpo HR Summit, Sep 2, 2017


安崎会長の著作「夢を蒔く」の中国語版《播种梦想》(中国出版社のご主張で書名を《机械巨人 无所畏惧的信念》とされました)が去る8月末中国で出版されました。
新書の出版の直後中国へ、9月2日午前中浙江省健峰HRサミットで凡そ1000名の来場者(多数中国企業トップ層の方々)向け、講演を行いました。
Kenpo HR Summit 2

Mr. Anzaki Satoru lecturing at Kenpo HR Summit, Sep 2, 2017

今回の講演会主催・講師陣営は、下記日中企業の一流経営者から結成されています。
健峰企管集団 叶斯水集団董事长、株式会社小松製作所 元社長・CEO、当研究会安崎暁会長、華為技術有限公司の高級顧問胡赛雄先生、華立科技股份有限公司の郭峻峰総裁、浙江吉利控股集団の張愛群副総裁、臥龍控股集団有限公司の劉紅旗副総裁、海天集団の総裁助理盧文賢先生、健峰企管集団人力資源項目総顧問黄盟尧先生。

安崎会長の講演テーマ:コマツの人材戦略-事業は人なり

講演は、最近のコマツに関するトピックスから語り始め、「日本のコマツ」が如何に「世界のコマツ」へ成長できたのか、製品の「品質と信頼性」だけじゃなく、未来志向の夢を蒔く経営の「品質と信頼性」、特に人材の「品質と信頼性」を極めるための取り組みとして、技術者の育成だけでなく、ビジネスリーダーや社長後継者育成プログラム、「出る杭になれ」ができる企業土壌の改良及び新人事制度の導入など、社長任期前及び任期内推し進めた人材戦略戦術を詳しく語っていました。

最後に、ほとんどの講演会で繰り返し言う老害防止論及び競争相手論を強調されました。
●第二代住友総理事伊庭貞剛氏(1849-1926)の教え:「事業の進歩発展に最も害をなすものは青年の過失に非ずして老人の跋扈である」
●企業の真の競争相手は同業他社ではなく世の中の変化だ

Mr. Anzaki Satoru lecturing at Kenpo HR Summit 3

Mr. Anzaki Satoru lecturing at Kenpo HR Summit, Sep 2, 2017

9月4日は、18:30~徳島県人会上海交流会に出席し、30数名の日中企業経営者・幹部を対象に語っていました。

この会への出席者が上海進出の徳島県企業又は徳島県企業と何らかの繋がりある企業の経営層メンバー達(中国人が凡そ1/3)で、全員日本語の分かる方なので、通訳を必要としいため、時間的に食事を楽しめて交流も盛り上がりました。

Tokushima Kenjinkai, Shanghai

Mr. Anzaki Satoru at Tokushima Kenjinkai , Shanghai, Sep 4, 2017

この2回の講演交流会の前後は、杭州周辺の乌镇及び西湖、兰溪周辺の諸葛八卦村、上海周辺の蘇州を観光し、江南水郷などの歴史や人文風景を満喫しました。

Visiting Wuzhen

Visiting Wuzhen

Visiting Seiko

Visiting Seiko

Visiting Shokatu Hakkemura

Visiting Shokatu Hakkemura 2

Visiting Shokatu Hakkemura

Visiting Zhuozhengyuan, Suzhou

Visiting Zhuozhengyuan, Suzhou

安崎会长 在浙江省健峰HR高峰会以及徳島县人上海交流会上演讲 ~ 日中草根交流活动报告

安崎会长的日文著作「夢を蒔く」的中文版《播种梦想》(因中国出版社的主张书名改定为《机械巨人 无所畏惧的信念》)于8月末在中国出版了。
安崎会长在新书出版之后立马赶赴浙江省,于9月2日上午在健峰HR高峰会上面对大约1000名参加者(众多中国企业经营层成员)进行了演讲。

这次演讲会主办以及讲师阵营,由以下日中企业的一流经营者组成。
健峰企管集団 叶斯水集団董事长、株式会社小松制作所 前社长/前CEO/本研究会安崎晓会长、华为技术有限公司的高级顾问胡赛雄先生、华立科技股份有限公司の郭峻峰总裁、浙江吉利控股集団的张爱群副总裁、臥龙控股集団有限公司的刘红旗副总裁、海天集団的总裁助理盧文贤先生、健峰企管集団人力资源项目总顾问黄盟尧先生。

安崎会长的演讲主题:小松的人才战略-事业,以人为本

演讲从最近关于小松的热门话题开始,讲解了“日本的小松”如何成长壮大为“世界的小松”、内容不仅包含对产品的“品质与信赖性”的精益求精、还包含对放眼未来的播种梦想型经营的“品质与信赖性”的追求、特别在追求人才的“品质与信赖性”的施政方面详细介绍了技术者培育、商务干部以及社长候补人选的培育制度、为了让“出头鸟出头”而进行的企业风土的改良以及新人事制度等等,他在任社长之前以及在任社长期间大刀阔斧推行的战略战术。

最后,安崎会长强调了他在大多数演讲会上都会重复的老害防止论以及竞争对手论:
●第二代住友总理事伊庭贞刚氏(1849-1926)的教诲:“事业的进步发展的最大障碍,并非青年的过失、而是老人的跋扈”
●企业真正的竞争对手,不是同行其他企业、而是世事的变迁

9月4日18:30开始,安崎会长出席徳島县人会上海交流会,面对30多名日中企业经营者以及干部进行了演讲。

本次会议的参加者都是进入了上海的徳島县企业或者与这些徳島县企业有关联的企业经营成人员(中国人约有1/3),均通晓日文,无需通訳,因此在安崎会长演讲之后众人得以大快朵颐、热烈互动。

2次演讲交流会的前后,安崎会长还游览了杭州附近的乌镇以及西湖、兰溪附近的诸葛八卦村、上海附近的苏州,饱览了江南水乡等地的人文、历史景观。

中国との合作、合弁の開始~「夢を蒔く」(仮称)からの抜粋

安崎会長の中国語版著作「夢を蒔く」(仮称)の出版がカウントダウンに入りました。
本書は決して一個人のキャリア人生に限る内容ではありません。
著者のご友人である関 眞次先生は、本書が「小松製作所」を主人公とする「歴史産業経済大河ドラマ」だとコメントされています。
中国側の出版社が本の名称を変えたいという気持ちも少し分かってきました。

関先生は、本書の後書きにこう書かれています▼
——
小松製作所という建設機械メーカーの創業前から現在までの仕事をつぶさに見ることで、明治維新後の日本の工業化の進展、明治産業人の行動、戦後の混乱期からの復興、オイルショック・ドルショックによる混乱、バブル時代の好況、リーマンショックによる不況という、日本の産業史を改めて確認することができたことだ。
 これは、私にとって「小松製作所」を主人公とする「歴史産業経済大河ドラマ」ともいえるものであった。物語は江戸末期、黒船の来港で右往左往する人々の中で、果敢に黒船に乗り込んで談判した土佐藩の志士、竹内綱のエピソードから始まる。彼は、小松製作所の創業者である竹内明太郎の父であった。明治維新後、竹内父子は鉱山業を始め、海外の文献やお雇い外人から最新の知識を学び、それに日本流の創意工夫を加えて、さらに進化させていく…
——

前回のピックアップ内容は、日中国交回復、初訪中という話でした。
その続きの雨降って地固まる「中国との100日交渉」部分は、かなり面白いので気が早く6月25日に掲載してしまいました。
そのため、今日は引き続き「中国との合作、合弁の開始」という部分を掲載いたします。

本書の内容を2か3週間おきにピックアップします。著者は現役時代、中国だけではなく、全世界を舞台にしていたのですが、中国での出版なので、主に中国にかかわる章節の内容をピックアップして載せたいと思います。

中国との合作、合弁の開始

 技術提携契約が調印されると、すぐに中国側の手で工場が建設されることになった。いろいろ既存の工場を見て回ったが「帯に短し、タスキに長し」でなかなか適地が見つからない。最終的に決められた山東省済寧はさら地であったが、済南の空港に近いのでよい選択であった。それでもまだ道路は未整備。孔子誕生の聖地・曲阜経由で悪路を3時間かけて行かなければならない不便な場所であった。最近は、高速道路が整備されとても便利になった。
 我々は、中国側に対し「中国内の部品産業が未発達だから、国産化率を急に上げない方が良い製品を作れる」とアドバイスしたが、中国側は「日本から高価な部品を買わされるのはごめんだ」ということで受け入れられず、彼らは国内での部品生産を急いだ。その結果、我々の予想よりはるかに早く国産化率が80%以上になった。
 契約期間は5年。同時期にエンジンをアメリカのカミンズ社と技術提携していたので、まずまずの製品が国産化された。この製品は、まだ中国製の部品の品質に難点があったので、国際市場では競争力が弱かったが、輸入品の代替としては問題なかった。契約終了後の現在も、山東工程機械集団有限公司として、中国第一のブルドーザメーカーとして発展を続けているのはよかったと思う。契約期間終了後も、若干の部品は国内では生産できなかったので、日本からの供給を続けた。
 1980年代に入り、中国の工業近代化のためのインフラ建設が進展した。これが、中国国内の建設機械メーカーの成長を促した。ブルドーザはうまくいったが、油圧ショベルは戦国時代に突入した。中国政府は、重要性の高い自動車産業の、海外との合作は規制したが、重要度の低い小さい建機は特に規制せず、外資との合作を奨励する姿勢だった。
 私は、建機第三部長の後、本社の管理部長や国内営業本部の部長となり、4年間ほど海外との仕事から離れていたが、1985年に取締役となり、海外事業本部の副本部長となることで復帰した。しかし、このときはプラザ合意後の急激な円高対策、アメリカのアンチダンピング対策や欧米、アジアの海外建設に追われて、中国までは手が回らなかった。
 この間、コマツの中国市場作戦は調査ばかり繰り返し、新規事業の決断が遅れ、油圧ショベルとホイールローダの合作、合弁は手つかずの状況だった。数年後、私は経営企画室長になり、全社の経営戦略全般を担当することとなった。そして、グローバル化推進を加速することにした。
 関係会社事業の整理も、建機の競争力回復と同様に、大きな経営課題であった。エレクトロニクス事業は、開発競争のスピードが速く、シリコンウエハー事業などはコマツ向きではなくなっていた。例外は、メカトロ部品とエキシマレーザー事業だった。
 技術進歩、環境の変化が進むにつれ、私がやるべき仕事の負担が大きくなってきた。片田社長の後の社長を、引き受けざるを得ないかもしれない、と考えるようになったのはこのころである。そして、「なんとしても、グローバル大競争を勝ち抜かなければならない。社長になる前に、円高で打撃を受けた建機事業の競争力回復のための手を打っておきたい」と考えていた。
 私が見つけた課題は、建機事業の経営を「部分最適、全体不適」という状況から解放するということだった。開発、生産、マーケティングなどの部門の中で、それぞれの対策を考えるのではなく、事業全体として俯瞰し、経営判断していく体制を作る必要を感じた。このために、会社の中で最も重要な建機事業を、独立した事業部にしてみようと片田社長と相談し、建設機械事業本部を設立し、私が本部長として陣頭指揮を執ることになった。
 欧米、アジアのグローバル対策が一段落したところで、久しぶりに中国に出かけた。深圳、上海の発展ぶりには目を見張った。建機中古車の需要がどんどん増大していた。油圧ショベルの合作相手は、先述した山東工程機械集団有限公司に決めた。新車需要が増加してきたら、ブルドーザで培った生産能力、資金がものをいうと考えての決定だった。幸いなことに、ブルドーザのころの知り合いが同社で偉くなっていた。みんな私のことを知っているから、仕事はとてもやりやすい。
 このころ、サソリの天ぷらというものを喰わされた。うまくはないが珍しいものだ。そのうちに、サソリが刺身で出てきた。怖がらずに平気な顔をして食べたら、向こうも出さなくなった。それでも、現地では名物料理だそうだ。
 建機の中古車は、「PCを買う」という形で注文が来る。この呼び名はコマツに幸いした。客先は、日本製ショベルならどれでもいいと考えている。PCは、日本ではコマツのショベルのことを指すが、中国では油圧ショベル全体の代名詞となっているから、「PC」の注文は、必然的にコマツへの注文となる。
 中古車は「PC200」という中心機種に人気が集まった。日本で買い付け、中国に流される。このころ、コマツが始めたオークションが盛んになった。高値で競り落としていくのは中国のお客だった。中国のお客は、中東のお客と同様に買い付けの主役の座に躍り出た。その結果、日本のお客は、中古車を買えなくなり、新車を買ってもらうしかなかった。
 我々は、香港からの北上作戦を開始した。まず、中古車用の部品販売見本市を開催し、その開催広告を出すことにした。部品の需要はとても多かったのだ。会場に訪れたお客から中古車の注文を受け、日本から届けるという戦略だ。これを繰り返して、徐々に中国本土を北上して行った。最初は中古車の購入であっても、上客はその後に新車のお客となる。
 済寧の油圧ショベル新工場が完成したとき、私は、この工場の開所式に社長として臨み、「2000年に2000台生産、販売しよう」と中国語で挨拶した。内心では、ずいぶん野心的な目標だと思っていたが、実際には、2000台の期待が、2003年には2万台と10倍に膨らんだ。この後、市場は急減したが、予想以上に膨らみすぎたものがまともな水準に落ち着いたという方が正しい。
 やがて、中国での新車市場が爆発的に増加した。医者が建機を使う土建屋に転業し、油圧ショベルを買って大もうけしたという風評も流れるほどであった。「中国での需要は馬鹿にできないぞ」と、1993年の訪中で実感した。
 中国で国産する油圧ショベルのブランド名を機械にどのように表示するか悩んだ。これは中国ならではの問題であった。昔から「小松」ブランドはブルドーザにつけられて、名前が通っている。だから「小松」と漢字表記を主張する人もいた。一方で、グローバル化の時代だから、他の国と同様の「KOMATSU」とすべきだという声も強かった。最終的には私が「KOMATSU」と決定した。中国人も反対しなかった。今から思うと、これが正解であったと思う。「小松」のことを中国読みで「シャオソン」という人も多いが、ブランド名としての「KOMATSU」が堂々と通用するようになった。

—–

安崎会长的中文版著作《播种梦想》的出版进入了倒计时阶段。

这本书的内容绝不仅仅局限于一个个人的职业生涯。
借用本书著者的友人関眞次先生的话来说,本书是一部以“小松制作所”为主人公的“历史产业经济大河剧”。
如此,中方出版社想更改书名一事,也是可以理解几分了。
関先生在本书后记里如此写到:
——
……通过深入细致地了解小松制作所这家建设机械制造商自创业前到现在的事业发展历程,得以重新确认了日本产业的历史,包括明治维新之后日本工业化的进展,明治时代产业人的行动、战后混乱期开始的复兴事业、石油冲击及美元冲击导致的混乱、泡沫经济时代的繁荣、雷曼冲击引发的经济不振。
这对我来说,可以说是以“小松制作所”为主人公的“历史产业经济大河电视剧”。故事发生在江户末期,在黑船来港、熙熙攘攘的人群之中,果断地登上黑船进行谈判的土佐藩志士竹內纲揭开了故事的帷幕。他,是小松制作所的创业者竹内明太郎的父亲。明治维新后,竹内父子开始了采矿事业,从海外的文献和雇佣的外国人身上学习最新知识,再加上日本方式的创意功夫,事业得以不停地发展壮大……
——

现在,本博正在2或者3周一次,从这本新书里摘选、分享一些内容。
虽说著者的职业生涯舞台并非仅限于中国、而是整个世界,但是因本书即将在中国出版,因此着重摘选分享一些与中国有关的片段内容。

上次摘选、分享了“中日邦交正常化后首访中国”部分的内容。接下来的“不打不相交-和中国的百日商务谈判”部分因为读来太有意思,已经于6月25日摘选并分享过,因此今天就摘选其后续部分的内容。

开始与中国合作办厂

 签署技术提携契约之后,由中方立马着手建厂的事情就定了下来。不过转着看了好多现成的工厂,都是高不成低不就,找不到合适的地方。最终决定的地方在山东省济宁,虽然是一片未经整理过的空地,但是离济南机场较近,就选定了。然而,道路未经整修,去那里要经过孔子诞生圣地曲阜、花费3个小时,极为不便。最近,高速道路修好了,已经是今非昔比,非常方便。
 我们对中国方提议:“中国国内的零部件产业还不发达,不要急于提高国产化比率为好,如此才能制造出优质产品”,然而中国方面却说:“让我们从日本买高价零部件,那不行”,他们没有接受我们的建议,而是加快了在国内制造零部件的步伐。其结果是,国产化比率早早地达到了80%,远远超过了我们的预测。
 契约期间为5年。同一时期里,因中方也与美国康明斯公司进行发动机方面的技术提携,所以产品的国产化水平还算说得过去。不过由于使用的中国制零部件质量方面的弱点,此产品在国际市场上竞争力尚弱,但是在中国国内,替代进口产品却已经没有什么问题了。令我欣慰的是,在契约期间结束之后,到了现在,山东工程机械集团有限公司作为推土机厂家中国第一,依旧没有停下发展的步伐。契約期間结束后,有些零部件也因为中国国内还不能生产,而由日本继续供应。
 进入1980年代,以实现中国工业近代化为目的的基础设施建设也得以发展,从而促进了中国国内建設机械厂家的成長。推土机生产工作比较顺畅,然而液压挖掘机却进入了战国時代。中国政府对于特别重要的汽车产业与海外的合作方面制定了严格的规章制度,但是对重要度较低的建机却不设规制,对他们与外资的合作反持奖励的态度。
 我从建机第三部长位置先后调任总公司管理部长、国内营业本部部长、约有4年左右从事与海外业务无关的工作。但是在1985年成为董事、就任海外事业本部副部长而再次从事海外工作。然而,这个时期我由于对应广场协议引发的日元升值、美国的反倾销对策以及欧美、亚洲的海外建设事业而忙得团团转,无暇顾及中国方面的事情。
 在此期间,小松在中国市场仅是反复实施调查,对于是否开拓新事业犹疑不决,液压挖掘机以及轮式装载机的合作、合营也无从着手。几年之后,我在就任经营企划室长,全面负责整个公司的经营战略之后,决定加速推进全球化事业。
 此时,整理关联公司的事业、以及重振建机竞争力,都是巨大的经营课题。电子事业方面,随着开发竞争的加速,小松已经对硅片事业力不从心。不过也有例外,那便是机电组件和准分子激光事业。
 随着技术的进步、环境的变化,我感觉到自己肩负的责任也在增大。那个时候我想到,也许不得不接片田总经理的班,担任下一任总经理。因此,我考虑到“无论如何,必须从这场全球化大竞争中胜出。在成为总经理之前,先采取措施,重振被日元升值打击的建机事业竞争力”。
 我发现首先需要解决的课题,是将建机事业的经营体制从“部分最适、全体不适”这个不良状況解放出来。我认识到,不能从开发、生产、营销等各个部门的角度单独去考虑一个个孤立的对策,而是必须通过俯瞰整个事业进行经营判断、健全经营体制。为此,我想到了将公司里最重要的建机事业做为一个独立的事业部分离出来,于是我与片田总经理商量后,设立了建设机械事业本部,我作为本部长坐镇前沿,指挥工作。
 欧美、亚洲的全球化对策告一段落之后,我出差去了久违的中国。深圳、上海发展迅猛,其巨大的变化让我膛目结舌。建机中古车需求快速增大。液压挖掘机的合作伙伴定为前文提及的山东工程机械集団有限公司。之所以如此决定,是因为考虑到新车的需求增加后,推土机事业中成长起来的生产能力及资金都可大大排上用场。幸运的是,从事推土机事业时代结识的人都已在公司里身居要职。大家都了解我,因此工作做起来是得心应手。
 那时,我被款待吃了蝎子天妇罗。味道不怎么样,但是罕见珍贵。过了一会,生的蝎子肉也上桌了。我脸不改色地吃了,对方也没有再上这道菜。据说在当地,那是一道名贵菜肴。
 建机的中古车,订单是以“买PC”的形式发来。这个名称给小松带来了幸事。客户用它表示需要挖掘机,只要是日本制就行。在日本,PC专指小松的挖掘机,在中国却泛指所有的液压挖掘机,所以中方记载“PC”的订单就成了订购小松机械的订单。
 在中古车里,主要是“PC200”这个机种受到众多客户的喜爱,客户到日本购买后、运到中国转卖。那时,小松开始的拍卖活动甚为红火。出高价拍下商品的都是中国客户。中国的客户,与中东客户同样,都跨进了采购主角之列。在日本,小松的客户也分为购买新车、购买中古车两种,而中古车拍卖价格由于外国买家的参入而上涨。结果,造成日本的中古车买家们低价购车的打算落空。好在日本市场的新车价格,在激烈的竞争中被压低,从世界范围来看新车价格也偏低, 因此这些想买中古车以节约经费的日本客户如意算盘落空,只好加点钱购买新车。
我们开始了从香港开始的北上作战。首先决定了举办用于中古车的零部件销售展览会,并为此发行举办展销会的广告。因为零部件的需求极大,因此计划在会场接受来场客户的中古车订单,从日本发货。这项活动不停地进行,慢慢地在中国本土从南朝北推进。虽说客户最初会购买中古车,但是之后,其中也有上宾会转向购买新车。
济宁的液压挖掘机新工厂建成之后,我作为总经理出席了这个工场的开幕式。我在开幕式上用中文致辞说:“让我们到2000年生产并销售2000台”。我当时心想这个目标的野心有些大了,然而实际产量却远远超过我所期待的2000台,2003年产量膨胀10倍,高达2万台。那之后,市场需求急速减低,不过从当初的预测来看,这只是膨胀过度的产量回复到了正常水准而已。
不久,中国市场对于新车的需求爆发式地增长起来,甚而有医生转向土木建筑业、购入液压挖掘机发了横财之类的传闻。这验证了我在1993年访问中国时的切身感受:中国的市场需求不可小觑。
在中国国产出来的液压挖掘机上,品牌名如何表示是件令人头疼的事情。这也是在中国才会出现的问题。以前在推土机上表示的品牌名是“小松”两个汉字,易于理解接受。因此,有人主张液压挖掘机也用“小松”两个汉字。然而,主张在全球化时代,与其他国家一样使用“KOMATSU”的声音也很响亮。最终我决定了使用“KOMATSU”,中国人也并没有反対。到今天想来,这个决定是正确的。如此以来,虽然“小松”在中国还被很多人读为“XIAOSONG”,但是作为品牌名的“KOMATSU”也被叫响、堂堂正正地通用开了。

—–

安崎会長、再び寧波健峰で講演へ ~ 活動予定

安崎会長の著作「夢を蒔く」の中国語版《播种梦想》(仮称)の出版がカウントダウンに入りました。

新書の出版の後、再び寧波健峰での講演会参加を予定しています。

今回の講演会も、一流の経営者からなる講演陣営となり、数多い経営者やビジネスマンが来場予定です。

日中国交回復、初訪中~「夢を蒔く」からの抜粋

安崎会長の中国語版著作「夢を蒔く」(仮称)の出版がカウントダウンに入りました。
前回のピックアップ内容は、著者の中国への興味が年齢とともに成長しキャリア形成に繋がった話でした。

キャリア人生と言っても、本書は決して一個人のキャリア人生に限る内容ではありません。

著者のご友人である関 眞次先生は、本書が「小松製作所」を主人公とする「歴史産業経済大河ドラマ」だとコメントされています。
中国側の出版社が本の名称を変えたいという気持ちも少し分かってきました。
関先生は、本書の後書きにこう書かれています▼
——
小松製作所という建設機械メーカーの創業前から現在までの仕事をつぶさに見ることで、明治維新後の日本の工業化の進展、明治産業人の行動、戦後の混乱期からの復興、オイルショック・ドルショックによる混乱、バブル時代の好況、リーマンショックによる不況という、日本の産業史を改めて確認することができたことだ。
 これは、私にとって「小松製作所」を主人公とする「歴史産業経済大河ドラマ」ともいえるものであった。物語は江戸末期、黒船の来港で右往左往する人々の中で、果敢に黒船に乗り込んで談判した土佐藩の志士、竹内綱のエピソードから始まる。彼は、小松製作所の創業者である竹内明太郎の父であった。明治維新後、竹内父子は鉱山業を始め、海外の文献やお雇い外人から最新の知識を学び、それに日本流の創意工夫を加えて、さらに進化させていく。
——

これからも本書の内容を2か3週間おきにピックアップします。著者は現役時代、中国だけではなく、全世界を舞台にしていたのですが、中国での出版なので、主に中国にかかわる章節の内容をピックアップして載せたいと思います。

日中国交回復、初訪中

 …1972年に日中の国交が回復した。翌年私は、ソ連、中国などの主として共産圏商売を担当する初代のプロジェクト課長となった。その結果、ようやく念願の中国と仕事上の関わりを持つことができるようになったのである。
 初訪中の緊張感は今でも忘れられない。当時は、まだ日中間の直行便の飛行機はなく、香港経由での中国入りだった。このときは、河合良一社長名で出した「小松ブルドーザ中国国産化提案」の起草者として、事務局長的な役どころで、第1回の訪中団に加わったのである。
 このころの中国は、建国してまだ日が浅く、日本では細かい情報は得られなかった。「竹のカーテン」の中がよく見えなかったのである。そのため、中国に入る前の香港に到着すると、「中国本土では、ご馳走を食べられないかもしれない」と懸念し、みんなで子豚の丸焼きに舌鼓を打った。
 我々訪中団が本土に入ると、コマツ一の中国通である吉田一臣さんが案内役となった。まず、広州に一泊して広東料理を楽しんだ、そして、空路北京へと飛んだが、そこは人民服と自転車の大群だったことが印象的であった。このころ、北京の空は青かった。Zhangjiakou China, 1973

●技術交流の思い出
その1:江戸時代の日本には「士農工商」の身分制度があったが、中国でも、「工」は「商」よりも待遇がよかった。我々営業部隊のビジネスマンは算盤をはじく「商」、物作りに関わる技術者は「工」。かくして、技術者たちは一流の北京飯店、我々は格下の新疆飯店をあてがわれた。
その2:こちらが中国を珍しく感じるのと同様に、彼らにとっても日本からの客は珍しい。日中の技術交流は、お互いが初体験だが、共通語は「ブルドーザ」であった。交流の場で、中国人技術者たちのハングリー精神には驚かされた。我々コマツの団員の中に、薩摩林さんという学者風の部長がいた。彼は、信頼性試験についての学術書の著者で、その本の内容を彼らに説明した。翌日の会議で、彼は中国人技術者たちからの質問攻めにあった。おそらく徹夜で翻訳し、回し読みしての質問だったのだろうと想像した。
その3:洛陽のトラクター工場の視察に訪れた時のことである。宴会の挨拶は、革命委員会に属する共産党の代表者が行った。おもしろい話は聞けなかった。昼間の技術的、専門的な質疑は、副工場長以下の実務部隊の人がやった。ところが、ブルドーザと農業用のトラクターとはものが違いすぎて会話が弾まない。さすがに量産する台数はすごいが、設計も生産設備も旧式だった。
 ここで、忘れられない思い出が二つある。一つは、香港から持参したピーナツ缶に関わる思い出。少し食べ残しがあったが、もう食べたくなかったので夜汽車の窓際に置いて下車した。ところが翌日のこと、これが忘れ物として私の部屋に届けられたのである。これには、本当にびっくりした。
 もう一つは、女性に関わること。河南省洛陽市にある龍門の石窟に案内されたとき、案内してくれたのが絶世の美女。聞けば、工場の従業員だという。「流石は、古都洛陽。昔の皇帝の愛人の末裔か」とみんなで噂をした。その後、各地を何度も訪れたが、彼女を超える美人にはお目にかかれなかった。
その4:北京でのモーニングコールは、大群の自転車が走る音と、数少ない自動車がけたたましく鳴らす警笛だった。当時の車道は自転車の天下だが、出す音は、自動車も負けてはいなかった。後に、自動車会社の人に聞いたら、日本から各地にタクシーを輸出したが、「クラクションが壊れる」クレームは中国のみだったという。中国タクシーのクラクション使用頻度は、設計基準をはるかに超えていたそうだ。

—–

安崎会长的中文版著作《播种梦想》的出版进入了倒计时阶段。

话说上次的博文,摘选的是著者对中国的兴趣随着年龄的增长而成长并对其职业生涯产生了极为良好作用那部分内容。

说到职业生涯,事实上这本书的内容绝不仅仅局限于一个个人的职业生涯。

借用著者的友人関眞次先生的话来说,本书是一部以“小松制作所”为主人公的“历史产业经济大河剧”!
如此,中方出版社想更改书名一事,也是可以理解几分了。

関先生在本书后记里如此写到:
——
……通过深入细致地了解小松制作所这家建设机械制造商自创业前到现在的事业发展历程,得以重新确认了日本产业的历史,包括明治维新之后日本工业化的进展,明治时代产业人的行动、战后混乱期开始的复兴事业、石油冲击及美元冲击导致的混乱、泡沫经济时代的繁荣、雷曼冲击引发的经济不振。
这对我来说,可以说是以“小松制作所”为主人公的“历史产业经济大河电视剧”。故事发生在江户末期,在黑船来港、熙熙攘攘的人群之中,果断地登上黑船进行谈判的土佐藩志士竹內纲揭开了故事的帷幕。他,是小松制作所的创业者竹内明太郎的父亲。明治维新后,竹内父子开始了采矿事业,从海外的文献和雇佣的外国人身上学习最新知识,再加上日本方式的创意功夫,事业得以不停地发展壮大……
——

此后,本博也将2或者3周一次,从这本新书里摘选、分享一些内容。虽说著者的职业生涯舞台并非仅限于中国、而是整个世界,但是因本书即将在中国出版,因此着重摘选分享一些与中国有关的片段内容。

中日邦交正常化后首访中国

 1972年,中日两国恢复了外交关系。次年我成为了主要负责苏联、中国等共产主义圈子营业项目的第一代课长。如此一来,我的工作终于开始如愿与中国产生关联,梦想与现实之间缩短了一步。
 第一次访问中国的紧张感,至今尚记忆犹新。当时,中日间没有直达航班,所以我们是经由香港进入中国。以河合良一总经理名义起草并提出了“小松推土机中国国产化提案”的我,作为事务局长之类角色加入了这第1次访中团。
 那时,中国刚建国不久,国门未开,从日本看不清“竹幕”内的世界,因此我们对中国知之胜少。所以一到中国的前一站香港,大家担心“进入中国本土后,没什么好东西吃了吧”,于是聚在一起,大快朵颐了一顿烤乳猪。
 我们访中团一行进入中国之后,有小松第一中国通之誉的吉田一臣先生负责我们的接待工作。首先,我们在广州住了一晚,享受了美味粤菜,然后飞赴北京,在那里,身穿中山装的人群和川流不息的自行车给我留下了深刻的印象。那时的北京,天空蔚蓝。

●技术交流的回忆
其1:与江戸时代日本存在“士农工商”的身分等级制度相似,当时在中国 “工”享受的待遇也优于“商”。我们营业部队的商务人员属于拨打算盘的“商”、从事产品制造工作的技术人员属于“工”。因此,技术人员们被安排住进了一流的北京饭店、却让我们下榻低一个规格的新疆饭店。
其2:正如我们对中国抱有新鲜感,在他们看来,我们也是珍贵的日本来客。中日技术交流对于双方来说都是头一次,因此“推土机”成了我们的共同语言。在交流场所,中国技术人员表现出来的对新知识的渴求精神震撼了我。我们小松访中团员里,有位学者风貌、名叫萨摩林的部长。他是一本关于信赖性测试学术书的著作者,他对他们介绍了那本书的内容。没想到在第二天的会议上,他成了中国技术人员们连珠炮似提问的对象。我想,他们应该是通宵达旦地翻译并反复研读了那本书、因此才能提出那么多的问题。
其3:是去视察洛阳卡车工厂时候的事情。在宴会上讲话致辞的是革命委员会里的一位共产党代表,他的发言没什么让人感兴趣的东西。而白天进行的技术性、专业性提问,则为副厂长以下的实务人员负责进行。然而,由于推土机和农用卡车有着根本的不同,双方会话契合不上、进行得不尽如人愿。虽然量产台数数目颇大,然而设计以及生产设备都已经陈旧落后。
 在这里,发生了两件让我难以忘怀的事情。第一件是有关从香港带去的花生米罐头的往事。罐头里还剩有一点没有吃完,因为不想吃了,晚上我将它放在了车窗边就下车了。没想到第二天,这被当作遗失物品送到了我的房间,着实让我大吃了一惊。
 第二件是关于一位女性的事情。当我们被带去参观河南省洛阳市的龙门石窟时,接待我们的是一位绝世美女。据说是工厂的职员。大家不由胡乱猜测、啧啧赞叹不已:“真不愧是古都洛阳。是不是古代哪位皇帝爱人的后裔呢”。那之后,我多次访问中国各地,却再也没有见过美貌超越她的美人。
其4:在北京,早上叫醒我的是成群结队的自行车声音以及少数汽车鸣发出的尖锐刺耳的喇叭声。当时的车行道几乎被自行车占满,然而数目极少的汽车发出的喇叭声也毫不逊色。后来问过汽车公司的人,被告知,日本的出租车出口世界各地,却只在中国接到过“喇叭坏了”之类的投诉。中国出租车使用喇叭的頻度,远远超过了设计基准。
—–

大学時代、関心は現代中国に~「夢を蒔く」からの抜粋

前回は、コマツ製品の中国での国産化を提案した安崎先生の善意と燃えるような熱意がどこから生まれたのかに対して、来月中国で出版予定の新書で回答を探ってみました。すると、「子供時代から抱いていた中国への興味」という章節の、「祖父の漢詩が、中国へ誘った」部分に辿り着きました。
今日は、その話の続きになります。今日の抜粋内容から、著者が子供から大人へ成長し興味が変わったように読取りますが、中国というキーワードが変わっていないため、むしろ子供時代興味津々だった古代中国文化への夢のような興味が現実味を帯びてきて、キャリア形成に繋がったと言えよう。

大学時代、関心は現代中国に

 中国への関心は、大学時代の第2外国語選択の際に、躊躇なく中国語を選ばせた。大学生活の6年間、中国語を学び続けたが、大してものにならなかった。しかし、その後の60年の今日に至るまで、中国、および中国人に対する興味を持ち続ける入口となったのは、この学習経験だ。中国の専門家にはならなかったが、政治、経済、社会、文化などの複眼的視点で中国を理解し、変化を観察する喜びを与えてくれた。中国に住んだ経験はないが、通算40回ぐらいは中国各地を訪問し、多くの人々と接することができた。
 中国のみならず、旧ソ連、ロシア、アメリカにも、たびたび出張で出かけたが、日中、露中、米中それぞれの2国関係、そして、日中米露という多国間関係から、中国を分析する視点を持てたことが、私の中国理解に大きな助けとなった。国土は広く、人口も多い。私は、「群盲撫象」のたぐいの一人だが、中国の存在が、私の人生に鮮やかな彩りを加えてくれたことは間違いない。
 1958年、私がまだ大学生のころ、一橋大学OBである船会社の大社長が大学に講演に来た。日本と中国との国交はまだ回復していなかった。北京に毛沢東の共産党政権ができて間もないころであった。
「若い学生諸君よ、隣国である中国に関心を持て。いまは国交もないが、将来の日中関係は必ず飛躍的に発展する。隣の大国とどうつきあうかが今後の課題。中国は、日本にとって大事な隣国である」との先輩の言葉に、現在の中国の様子をもっと深く知りたい、という思いはますます強くなった。
 中国語を学びながら、中国に関する情報には、ことさら注意深く耳を傾けるようになっていた。大躍進、人民公社、文化大革命……これらのキーワードを目にするたびに、心を躍らせていたが、親や家族より国が大事、という文化大革命の理念には半信半疑であった。
 中国に関する本もたくさん読んだ。魯迅の小説には惹かれるものがあった。歴史学者である宮崎市定の孫文との交友録も図書館で見つけた。
 子供のころは、漢詩、三国志などの昔の中国に興味を持っていたが、年を重ねるにつれ、現代中国へと関心が変化してきた。

—–

上篇博文里,对于提出小松产品在中国国产化建议的安崎先生那份善意以及近乎燃点的热情是如何产生、又是如何高涨近乎沸点,求问下月将在中国出版的新书,我在“萌芽于孩提时代的中国情结”这一章节的“外祖父的汉诗,诱发了我对中国的兴趣”这部分文字里找到了答案。
今天继续这个话题。从今天的摘选看来,著者随着长大成人、兴趣似乎也发生了变化,然而“中国”这个关键词却并没有改变,因此与其说是兴趣的变化,不如说著者随着年龄的增长,梦境里吸纳进了现实性的养分,孩童时代那份对古代中国文化近乎梦幻般的兴趣渐渐转化、对其职业生涯产生了极为良好的作用。

大学时代转向关注现代中国

对中国的兴趣,让我在大学时代选择第二外语的时候,毫不犹豫地选择了中文。在6年的大学生活中,我一直坚持学习中文,然而觉得学到的东西远远不够。不过正是那段中文的学习经历,让我在迄今为止的整整60年里,对中国以及中国人的浓厚兴趣经久不衰。虽然没有成为研究中国的专家,但是却由于养成了多角观察政治、经济、社会、文化等的习惯,让我对中国的理解以及观察活动变得驾轻就熟、其乐无穷。虽然从未在中国生活过,但是大约共计40次访问中国各地,得以接触了很多人物。
不仅是中国,由于也经常出差旧苏联、俄罗斯、美国,所以我从中日、中俄、中美,这些2国关系、进而从中日美俄多国关系出发对中国进行分析的视觉,都大大地深化了我对中国的理解。不过中国国土辽阔、人口众多,因此我对中国的了解只不过如盲人摸象的程度,然而毫无疑问,中国的存在,让我的人生之路如此多姿多彩、充实饱满。
 1958年,我还是大学生的时代,有位一桥大学退役前辈、某造船公司的总经理到大学演讲。那是日本和中国还没有恢复外交关系,毛泽东的共产党政权刚在北京建立不久的事情。“年轻的学生诸君们,要关注邻国中国。现在两国虽然还没有外交关系,但是将来中日关系一定会有飞跃性的发展。如何与邻国大国打交道,是今后的课题。中国对于日本而言,是非常重要的邻国”,这位前辈的话激活了我想更加深入了解中国现状的愿望,这种愿望越来越强烈了。
 于是我一边学习中文,一边事无巨细地倾听、收集有关中国的信息,这渐渐地成了一个习惯。大跃进、人民公社、文化大革命……每当看见这些关键词,心就会激荡起来,但是对于国家高于父母或者家族这种文化大革命的理念,我却是半信半疑。
 与中国有关的书籍我也读了很多。曾被魯迅的小说吸引。在图书馆还发现了历史学家宮崎市定写的他与孙文的交友录。
 如此这般,我孩童时代对汉诗、三国志等古代中国的兴趣,随着年龄的增长,转变成了对现代中国的关心。