引退後も中国と関わる-日中民間の草の根交流~「夢を蒔く」からの抜粋

 引き続き、安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)のピックアップです。

 本書の内容を2か3週間おきにピックアップします。著者は現役時代、中国だけではなく、全世界を舞台にしていたのですが、中国での出版なので、主に中国にかかわる章節の内容をピックアップして載せたいと思います。

 今日は、3.3「引退後も中国と関わる」部分からのピックアップになります。

日中民間の草の根交流

 欧米や西側諸国、そして日本の大企業社長で、若いころ中国の仕事に携わった経験を持つ人は多くない。私の知る限りでは、ドイツのフォルクスワーゲンのピエヒさんと、日本では私の二人だけだ。二人の共通点は、次の三点である。
1.中国に需要が多い会社で仕事をしている。
2.早くから中国経済の将来性に眼をつけ、他の人が注目していない時代から、自分自身で市場に乗り込み、陣頭指揮をしていた。
3.中国だけでなく、世界市場全体を見てきた。
 単に中国通というだけでは社長は務まらない。中国市場に重きを置いている会社の社長が、中国に詳しいわけでもない。世界市場の中での、中国の位置づけを見極めることが重要なのだ。
 現在、コマツの事業は世界190ヵ国で展開している。私も現役のころは、70ヵ国に出かけた経験がある。最も多く通った国の順番は、アメリカ、ロシア、中国となる。
 引退した今、私が日中の民間で行われている草の根交流のお役に立ちたいと思っているが、それは次のような理由からである。
 若いころから、引退後は余生三等分主義で暮らしたいと念願していた。第一が世のため、人のため。第二が家族や友人のため。第三が自分のためという三つを充実させた暮らしを送りたいと考えていた。時間とエネルギー、お金を三等分してこの三つに使い、健康寿命を全うしたい。現役のころ、特に社長就任後は公人となるので、自分や家族のことはおろそかにせざるを得ない。仕事に全力投球である。もちろん個人としては、政治、教育、社会に関心がある。ただ引退後も会社社長という経歴を看板に政治、教育などに口出しするのはみっともないと考えている。ひたすら余生を楽しみながら、健康寿命を全うしたいと願うのみである。
 そこで、引退後「世のため、人のため」に何ができるかを考えた。世間が受け入れてくれる、自分の得意技は何か? 政治家ではない、学者でもない私が、過去の経験や自慢話をしても、聞く耳を持ってくれる人はいない。人様に教えることは苦手だ。現在も自分が関心を持って勉強していることしか話せないし、書けもしない。しかし、読むこと、聞くことは続けられる。
 学生のころ、先輩が「将来の日中関係に関心を持て」と示唆してくれたことが頭の中に残っていた。中国は資本主義経済の経験がない。中国の、特に民間経営者とその予備群の人たちには、「コマツがグローバル化にどのように立ち向かってきたか?」「失敗と成功の原因、理由は何か?」などの質問を受けながら率直に答えていけば、役に立つ話となるかもしれない。これが、なぜ、今私が、日中民間草の根交流のお役に立ちたいと努力している理由だ。そのために、2014年に『聚変』という本を上海で出版した。
 この本を読んだ読者から、「中国に来て詳しい話をしてくれ」と言われることがある。日時の都合が合えば、喜んで出かける。先方が日本に来て、「話を聞かせろ」と言われることもある。出版を考えたのは、ビジネススクールで講演したとき、学生の中に企業に勤めている人がいたが、「安崎さんの話は、経営者を志す中国の若者にとっておもしろい」と評価してくれたことだ。それでは、そういう人を対象にして、本を出してみようと考えたのだ。この出版活動を通じて、孫秀蓮さんという若い在日中国人を知るきっかけとなった。彼女は、『和華』という雑誌の編集長だ。

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 继续摘选安崎会长的著作《夢を蒔く》(中文版由于中国出版方的主张书名由《播种梦想》改为:《机械巨人小松 无所畏惧的信念》)内容。

 本博大约2或者3周一次,从这本新书里摘选、分享一些内容。
虽说著者的职业生涯舞台并非仅限于中国、而是整个世界,但是因本书即将在中国出版,因此着重摘选分享一些与中国有关的片段内容。

 今天摘选内容来自于3.3“引退后也致力于日中交流”部分。

推动日中民间外交

 欧美以及西方各国、进而日本的大企业总经理中,年轻时曾从事过与中国有关的工作之人不多。我所知道的只有德国大众汽车的皮耶希以及我两人而已。我们二人的共通点有三个,如下所示。
1.都在拥有众多中国客户的公司里工作。
2.从早年便开始关心中国经济的未来,从其他人尚不关心的时代开始、就积极主动地投身于市场,在前沿指挥、带领大家冲锋陷阵。
3.不是仅仅关注中国、而是放眼世界这个整体市场。
 总经理之职,仅靠通晓中国这点本事是难以胜任的。再者,也不是说主打中国市场公司的总经理就是通晓中国之人。作为总经理,重要的是看清中国在世界市场之中的定位。
 现在,小松的事业已经遍及世界190个国家。我在现役时代,曾访问过70个国家。最多次访问的国家,按照顺序来说是,美国,俄国,中国。
 在引退之后的现今,我也期望有助于民间性质的日中草根交流活动,我这种思想,源于以下理由。
 自年轻时开始,我心里便萌发了将来引退后实行余生三等分主义生活方式的愿望。我考虑的三等分主义生活,第一为世界、为他人,第二为家庭及朋友,第三为自己,充实这三方面的人生内容,享受余生。将时间以及精力、金钱分成三等分使用、以图健康地享尽天年。因为我在现役时代、特别是就任总经理之后身为公众人物,将全身心都投入到了工作之中,照顾自身以及家庭都成了有心无力的事情。而今天的我,作为个人还保持着关心政治、教育以及社会问题的习惯,但是认为既然已经退了下来,若还打着往昔公司总经理的幌子对政治、教育等事情多嘴多舌就太不成体统了。只愿一门心思享受余生、维持身心健康、享尽天年。
 那么,退役之后能做点什么“为世界、为他人”的事情呢?我思考起这个问题来。我能为世人接受的拿手本事是什么?既非政治家、又非学者的我,讲讲过去的经验或者自吹自擂一番过去的业绩,想来也没人愿意听,再说我也不擅长于教人。到现在我能说说或者能写写的也只是自己关心、学习中的东西。幸而,我依旧耳聪目明、能读能听、能继续了解这个世界。
 学生时代一位前辈给了我启示的话语一直难以忘怀:“要关心将来的日中关系”。中国没有经历过资本主义经济,若是针对来自于中国、特别是民间经营者以及民间经营者预备军们“小松是如何应对全球化大潮的?”“失败以及成功的原因、理由是什么?”之类的具体提问,我应该能通过回答他们而对他们有所帮助。这便现今的我也为了有助于日中民间草根交流活动而不懈努力的理由。为此,我于2014年在上海出版了《聚変》一书。
 有些读了这本书的读者邀请我去中国演讲。若日程可能,我便乐于应邀成行。也有对方到日本来、希望见面听我讲演的情况。让我考虑出版这第二本书的原因,是在商业学校讲演的时候,得到了在企业工作的学生反馈:“安崎先生的讲演,对于立志成为经营者的中国年轻人来说,受益匪浅。”这样的评价给了我动力,于是我想,那就为这些人写书出书。通过出版活动,我认识了年轻的在日中国人孙秀莲。她是杂志《和华》的编辑长。

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トップは中国人に任せる~「夢を蒔く」からの抜粋

引き続き、安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)のピックアップです。

本書の内容を2か3週間おきにピックアップします。著者は現役時代、中国だけではなく、全世界を舞台にしていたのですが、中国での出版なので、主に中国にかかわる章節の内容をピックアップして載せたいと思います。

トップは中国人に任せる

 コマツは世界各地で、グローバル化の先駆者として事業の展開をしてきた。さまざまな試行錯誤を経て、「現地の経営責任者は、現地の人に任せる」方が好業績につながることを確信した。この詳細は、拙書『日本型ハイブリッド経営――21世紀経営者の役割』(中央経済社刊、2010年発行、P.169~P.171)を引用することにする。

 「経営のローカル化に関しては私独自の命名だが、“鋸の刃理論”を信奉している。現地の代表を日本人とするか、ローカルの人にトップを任せるかという問題だ。
 日本の本社にいる人たちからすれば、日本人に代表になってもらった方が仕事をするうえでやりやすい。本社のいうことにも忠実だし、仕事も手馴れている。問題は数年の任期で交代を繰り返さざるを得ぬことだ。本人がその気なら長期間外国の任地に留まるという選択もありそうだ。コマツの例でも28年アメリカの駐在を続け現地の評判も良く業績を上げた人がいた。これは例外で普通は数年の勤務を経て帰国、後任がまた日本から来る。長期間外地勤務で本人の才能を生かしきれぬ懸念もある。この駐在員や代表を日本人が交代で務めるという仕組みはその地のお客やローカル社員の評判が良くない。せっかく慣れたところでもう帰るのか、教育の甲斐がない。次の人をまた一から仕込むのか。鋸の刃のように上がってはまた下がる。確かに刃が上がる角度はローカルの人に比べ優秀な日本人であればあるほど大きい。だが交代すれば、上がった刃が下がり、元の木阿弥。何年たっても一定の上昇しか期待できない。これに反し、ローカルの適任者が見つかれば、刃の上がる角度は小さいが、勤務が続けば交代で下がることがない。5年でくらべれば、負けるが、10年の比較では、業績もお客の評価もこちらが上。鋸の刃状でなく滑り台を下から上がる形となる。このほか優秀な現地ローカル社員は、日本人の上役が繰り返し任命され自分のこれ以上の昇進がないと判断すれば逃げ出すのが普通。この噂が一般化した企業には優秀なローカル社員の応募が無くなるのが普通。これが私の“鋸の刃理論”。できる限り世界各地でトップに現地ローカル社員を任命することを心がけてきた。saw blade theory
 もちろん、本人の資質や人事上の眼力の問題はある。人事の成功と失敗はいつも紙一重。いきなり高給でローカルトップを探してきても周囲の支持が集まらなければ、うまくいかない。No.2として採用し、実力、人望を観察し、短い期間にNo.1に昇格させる安全策が必要な時もある。多様性を認め、ローカル企業になりきり、現地の顧客、地域社会に支持されるには、現地トップはローカルの方が長期的に見れば好業績につながるというのが私の持論。ローカルトップに任せ、良い仕事をしてもらうには、任命権者たる経営トップの継続的支持、激励、監督は不可欠。これを怠ると、いつの間にか日本人の本社官僚にその地位を追われてしまうことが多い」。
 私が名づけた“鋸の刃理論”は、図を見ていただければ一目瞭然。だからこそ、ローカルトップに、現地での経営を任せているのである。
 2003年頃の中国の傘型統括会社「小松中国投資有限公司」の人員体制は図の通りである。「赤」で示したのは、現地化され中国人が就任しているポスト。「緑」は日本人が就いているポストである。これを見れば、主役は中国人、日本人は補佐する役目としている体制が、一目瞭然であろう。Staffing view

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 继续摘选安崎会长的著作《夢を蒔く》(中文版由于中国出版方的主张书名由《播种梦想》改为:《机械巨人小松 无所畏惧的信念》)内容。

 本博大约2或者3周一次,从这本新书里摘选、分享一些内容。
虽说著者的职业生涯舞台并非仅限于中国、而是整个世界,但是因本书即将在中国出版,因此着重摘选分享一些与中国有关的片段内容。

选任中国人为高层干部

 小松一直在世界各地,作为全球化的先锋展开事业。经过了各种各样的试验和失败,确切地认识到“选任现地人物担任现地的经营责任者”,对于取得良好业绩更为有利。关于这点的详细内容,在此引用拙著《日本式混合型经营 – 21世纪经营者的作用》 *日语书名:《日本型ハイブリッド经营――21世紀经营者の役割》(中央经济社出版、2010年发行、P.169~P.171)如下。

 “关于经营的本土化,我信奉我自己命名的“锯刃理论”。我用这个理论说明了是应该选用日本人为现地法人代表,还是选用现地人物为高层经营干部。
 站在日本总公司的立场看来,让日本人做当地法人代表比较好,因为觉得日本人更加忠实于总公司,对总公司言听计行,而且对工作内容也已熟悉和习惯。但是如此做的弊端在于,几年任期一到,就不得不更换人员并如此反复。当然若本人愿意选择在外国长期任职的话,这个弊端可以得到解决。小松就有一例,某人常驻美国28年,赢得当地的好评并创下了良好的业绩。不过这只是个例外而已,通常是干几年就回国,从日本再派其后任。从人事的角度考虑,让员工长期在国外任职,有个忧虑,即是本人的才干难以得到最大限度的施展。再说,当地法人代表之类的驻外人员,采用派遣日本人轮换的方式还有一个弊端,那就是通常难以得到当地顾客以及员工的好评。好不容易熟悉了当地文化却要回去,教育白费一场,下一个人还得从头开始,就像锯齿似的上上下下,当地员工的水平不能维持在一个稳定的高度。倘如派去的日本人比当地人员优秀的话,锯齿会上升到一个较大的角度,但是一进行人员轮换,上升的锯齿就回落,白下功夫,如此这般无论经过多少年也难以期待当地员工水平的上升。与此相比,若能在本地找到合适人选,锯齿上升的角度虽然小,但是随着其持续任职,则不会发生由人员轮换引起的回落。用5年来比较虽有可能弊大于利,但以10年左右长期来看,无论从业绩还是客户的评价方面都将利大于弊,呈现出的不会是锯齿状,而是由下往上的滑板形状。此外,通常而言,优秀的当地员工眼见日本人上司反复不停地任命轮换,因此判断自己难有升职的机会,就会拍屁股走人。当关于一个企业的这类小道消息流传开来,通常就不会有优秀的当地员工应聘这家公司了。这就是我的“锯刃理论”,基于此理论,对于世界各地法人代表之类要职,我非常留意尽可能从当地员工中选拔任用。
 当然,本人的资质以及人事工作人员在选择人才方面的眼光高低也是个问题,分毫之差往往能决定人事工作的成败。企业用高待遇采纳当地人才,立马就地让其担任首脑一职,若得不到周围员工的支持,则会弄巧成拙,使工作难以顺利进行。因此,有必要采用某些安全策略,比如先任命采用的当地人选为上层2号人物,经过一段时间观察并确认其实力和声望后,再将其提升为头号人物。我的一贯主张是,长远看来,承认多样性、成为不折不扣的本土企业、获取当地顾客以及社会的支持以取得更好业绩,使用本地人员作为头号人物更佳。随后,为了让本地头号人物放开手脚、大刀阔斧地展开工作,来自于手握任命大权的经营管理层们的持续性支持、激励以及监督都必不可少,一旦懈怠,公司总部日本人的官僚主义无形中会危及本地头号人物的地位。”
 我命名的“锯刃理论”如图所示,内容一目了然。正是基于这个理论,我选任现地人物作为本土公司的高层干部,负责现地的经营工作。
 2003年前后,中国的控股公司“小松中国投资有限公司”的人员体制如图所示。红色表示的是选任中国人在本土化公司里就任的职位。绿色表示的是日本人就任的职位。从图示可以看出,主角是中国人、日本人为辅佐角色,这个体制一目了然。
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小松上海を設立~中国版新書からの抜粋

安崎会長の著作「夢を蒔く」)は、中国で「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名で出版されました。
著者のご友人である関 眞次先生は、本書が「小松製作所」を主人公とする「歴史産業経済大河ドラマ」だとコメントされています。
書名を「夢を蒔く」から「机械巨人小松 无所畏惧的信念」としようという中国側の主張も分かるようになってきました。

関 眞次先生が本書の後書きにこう書かれています▼
——
小松製作所という建設機械メーカーの創業前から現在までの仕事をつぶさに見ることで、明治維新後の日本の工業化の進展、明治産業人の行動、戦後の混乱期からの復興、オイルショック・ドルショックによる混乱、バブル時代の好況、リーマンショックによる不況という、日本の産業史を改めて確認することができたことだ。
 これは、私にとって「小松製作所」を主人公とする「歴史産業経済大河ドラマ」ともいえるものであった。物語は江戸末期、黒船の来港で右往左往する人々の中で、果敢に黒船に乗り込んで談判した土佐藩の志士、竹内綱のエピソードから始まる。彼は、小松製作所の創業者である竹内明太郎の父であった。明治維新後、竹内父子は鉱山業を始め、海外の文献やお雇い外人から最新の知識を学び、それに日本流の創意工夫を加えて、さらに進化させていく…
——

本書の内容を2か3週間おきにピックアップします。著者は現役時代、中国だけではなく、全世界を舞台にしていたのですが、中国での出版なので、主に中国にかかわる章節の内容をピックアップして載せたいと思います。

今日は、前回のピックアップ内容の続きになります。

小松上海を設立

 中国市場規模は、徐々に拡大し始めた。当初は、日本からの中古車の需要が多かったが、1990年代後半になると、新車の需要も拡大してきた。ちょうどこのころ、中国済寧の油圧ショベル、常林のホイールローダ工場で現地生産が開始された。まさに、タイミングはピッタリだった。今でこそ「世界の工場」と呼ばれるようになった中国だが、コマツの両工場とも、中国の国内市場用に建設され、輸出向けのものではなかった。シベリア、アフリカ、中近東などへの輸出や、コマツのグローバルネットワークを活用する工場間輸出が開始されるまでには、もう少し時間を必要とした。当面の狙いは、国内市場に焦点が当てられていた。
 コマツの中国での現地生産開始に合わせ、協力企業の団体である「みどり会」の工場も既に欧米やアジアでの現地生産の経験を積んでいたから、すぐに生産体制を作り上げることができた。
 中国での経営方針は、コマツが他の諸国に進出するときに採用している「コマツウェイ」に則ったものであった。つまり、経営は現地に任せ、物作りは日本流で進めるという進め方である。だから、経営トップは中国人、物作りは日本のマザー工場のやり方を見習ってもらった。
 多くの企業が、日本からトップを送り込んで、すべてを取り仕切り、現地は日本の指示待ちが当たり前という時代に、コマツは、中国人を経営トップに据え、派遣された日本人が支える方針を貫いていた。コマツウェイを基本とした海外進出は、世界共通の方針ではあったが、特に中国では、「中国人に経営を任せた方が、確実にうまくいく」と私自身の長年のビジネス経験が物語っていた。だから、確信を持って、この経営方針を採用したのである。技術を持ち、経験豊富な日本人幹部たちは補佐役に徹し、現地の人たちの教育に力を注ぐことで、中国人トップを支えてくれたこともありがたいことであった。
 1999年、中国建国50周年のイベントとして「FORTUNE(財富)500」が上海で開催された。世界中の大企業トップが上海に集まった。各国からのCEOを乗せてきた自家用ジェット機が上海空港を占領するくらいだった。日本からも30人のトップが参加した。
 私は、当時計画されていた西電東送、南水北調、西蔵鉄路などの西部開発プロジェクトの実情をこの目にしようと思い、雲南省昆明、陝西省西安、四川省成都などを回ってから上海入りをした。上海では、地方政府の書記、省長、副省長などの役職に、上海出身者が多く配転されていることに気がついた、彼らの中には、共産党幹部というより、有能な経営幹部という感じの人もいた。Fortuneセミナー in China

 私は、上海電視台(TV局)のインタビューを受けた。美人の司会者から「安崎社長は、中国通といわれています」と紹介された。「私は今まで、中国では大もうけしたことはありません。西部開発はコマツにとってBIGチャンスではありますが、中国は戦略家揃いですから、油断は禁物。大損をしないように気をつけます」とコメントしたら、聴衆は一斉に笑った。
 その後2000年には、済寧のショベル工場、常林のホイールローダ、トンネル機械、自動車用プレスなど、拡大していく需要に対応し、上海に傘型企業といわれる全体を統轄する会社を設立した。この会社の総経理には、中国人トップの王子光さんを据えた。彼の統括経営の腕の冴えは素晴らしく、数々のチャンスをものにし、ピンチを乗り切ってくれた。私が懸念した「大損」をすることなく、今日の繁栄を築いてくれた。彼は、コマツの中国ビジネスの立役者の一人であった。その彼も、2017年に後任の中国人にタスキを渡して引退した。心から「王さん、ご苦労様でした」とエールを送った。
 この2000年という年は、上海の株式市場開設、WTO(世界貿易機関)加盟の動きなど、中国経済が大変革を研げる節目のころであり、小松の中国事業にとっても、まさに変革の年であった。

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安崎会长的著作《夢を蒔く》(中文意思:《播种梦想》)以《机械巨人小松 无所畏惧的信念》之书名在中国出版了。

著者的友人関 眞次先生说,本书是一部以“小松制作所”为主人公的“历史产业经济大河剧”。
如此,对于中方出版社主张将书名从《播种梦想》改为《机械巨人小松 无所畏惧的信念》一事,也能理解几分了。

関先生在后记里这样写道:
——
……通过深入细致地了解小松制作所这家建设机械制造商自创业前到现在的事业发展历程,得以重新确认了日本产业的历史,包括明治维新之后日本工业化的进展,明治时代产业人的行动、战后混乱期开始的复兴事业、石油冲击及美元冲击导致的混乱、泡沫经济时代的繁荣、雷曼冲击引发的经济不振。
这对我来说,可以说是以“小松制作所”为主人公的“历史产业经济大河电视剧”。故事发生在江户末期,在黑船来港、熙熙攘攘的人群之中,果断地登上黑船进行谈判的土佐藩志士竹內纲揭开了故事的帷幕。他,是小松制作所的创业者竹内明太郎的父亲。明治维新后,竹内父子开始了采矿事业,从海外的文献和雇佣的外国人身上学习最新知识,再加上日本方式的创意功夫,事业得以不停地发展壮大……
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现在,本博正在2或者3周一次,从这本新书里摘选、分享一些内容。
虽说著者的职业生涯舞台并非仅限于中国、而是整个世界,但是因本书即将在中国出版,因此着重摘选分享一些与中国有关的片段内容。

今天继上次,摘选、分享后续部分如下。

设立小松上海

中国市场规模渐渐开始扩大,最初对于日本中古车的需求较大,而到了1990年代后期,新车的需求也增长起来。此时恰逢中国济宁的液压挖掘机工厂以及常林的轮式装载机工厂开始了产品的现地生产,真是天赐良机。此时此际的中国虽然被称为“世界工厂”,但是这两家公司都不是为了生产出口产品,而是为了生产面向中国国内市场的产品而建。那时,向西伯利亚、非洲、中近东等方面出口、以及通过灵活运用小松的全球化网络进行工厂间相互出口,还未到时机。当务之急,是聚焦于中国国内市场。
 与小松在中国现地开始生产同步,由协作公司为成员的团体“绿之会”的工厂,也因为已经在欧美以及亚洲积累了现地生产的经验,所以很快确立了生产体制。
 小松在中国的经营方针,同样遵循小松在进入各国之时采用的小松模式。换言之,经营实行本土化,而产品制造则遵循日本模式进行。因此,经营高层为中国人、产品制造则让中方人员来日本见习母工厂的工作方式。
 那时许多企业都是从日本派遣上层人员去现地,让他们全面掌管现地企业的工作,现地遇事则翘首以待日本方面的指示。在如此做法被认为是理所当然的那个时代,小松就贯彻经营高层使用中国人、而让派往现地的日本人为后援的方针。小松模式是小松通用于世界的海外进出基本方针,尤其是我多年的从商经验证明,特别是在中国,“将经营权交与中国人,工作才会确实得以顺利进行”。我坚信这一点,因此将其确立为经营方针。让我庆幸的是,那些被派去的拥有丰富的技术及经验的日本人干部彻底扮演自己的辅助角色、将精力倾注于对当地人员的教育工作之中、出色地完成了支持当地中国人上层管理者的任务。
 1999年,作为中国建国50周年活动,“FORTUNE(財富)500”在上海召开。来自于世界各地的大型企业首脑们云集上海。载着各国CEO的私人直升机几乎占领了上海机场。日本也有企业领袖30人参加。
 我想看看当时计划中的西电东送、南水北调、西蔵铁路等西部开发项目的实际状况,于是游历了云南省昆明、山西省西安、四川省成都等地后才进入上海。在上海,我发现被任命为地方政府的书记、省长、副省长等职位的人,上海出身者为多。其中有些人,与其说是共产党干部,我感觉更是能干的经营型干部。
 我接受了上海电视台的采访。我被美女主持人如此介绍:“据称,安崎总经理是一位中国通”。“到今天为止,我在中国从没有赚得大钱。虽说西部开发对于小松是个大好机会,然而中国战略家云集,切不可掉以轻心。我一定要小心,以免亏得一塌糊涂”,我的发言让听众们一起笑了起来。
那之后的2000年,为回应中国市场对济宁的挖掘机工厂、常林的轮式转载机、隧道机械、汽车车身压床等产品日益增大的需求,小松在上海设立了一家控股公司,以全面统辖扇下企业。我安排中方高层干部王子光先生为这家公司的总经理。他拥有高超的统括经营手腕,抓住并活用许多机会,度过了难关,避免了我所担忧的“大亏”,为今天的繁荣昌盛打下了基础。他,是小松的中国事业的强有力推手之一。他也在2017年引退、将总经理之接力棒交给了他的后任中国人。我在心里向他送去了赞许:“王总,幸苦了”。
 2000年,是公司进入上海股票市场、也是中国呈现了加盟WTO(世界贸易机构)兆头等大事发生之年,值此中国经济在巨大变革中历练的转折性关头,于小松的中国事业而言,也正处变革之年。

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安崎会長、浙江省健峰HRサミットや徳島県人上海交流会で講演 ~ 日中草の根交流活動報告

安崎会長、浙江省健峰HRサミットや徳島県人上海交流会で講演 ~ 日中草の根交流活動報告

Kenpo HR Summit 1

Mr. Anzaki Satoru lecturing at Kenpo HR Summit, Sep 2, 2017


安崎会長の著作「夢を蒔く」の中国語版《播种梦想》(中国出版社のご主張で書名を《机械巨人 无所畏惧的信念》とされました)が去る8月末中国で出版されました。
新書の出版の直後中国へ、9月2日午前中浙江省健峰HRサミットで凡そ1000名の来場者(多数中国企業トップ層の方々)向け、講演を行いました。
Kenpo HR Summit 2

Mr. Anzaki Satoru lecturing at Kenpo HR Summit, Sep 2, 2017

今回の講演会主催・講師陣営は、下記日中企業の一流経営者から結成されています。
健峰企管集団 叶斯水集団董事长、株式会社小松製作所 元社長・CEO、当研究会安崎暁会長、華為技術有限公司の高級顧問胡赛雄先生、華立科技股份有限公司の郭峻峰総裁、浙江吉利控股集団の張愛群副総裁、臥龍控股集団有限公司の劉紅旗副総裁、海天集団の総裁助理盧文賢先生、健峰企管集団人力資源項目総顧問黄盟尧先生。

安崎会長の講演テーマ:コマツの人材戦略-事業は人なり

講演は、最近のコマツに関するトピックスから語り始め、「日本のコマツ」が如何に「世界のコマツ」へ成長できたのか、製品の「品質と信頼性」だけじゃなく、未来志向の夢を蒔く経営の「品質と信頼性」、特に人材の「品質と信頼性」を極めるための取り組みとして、技術者の育成だけでなく、ビジネスリーダーや社長後継者育成プログラム、「出る杭になれ」ができる企業土壌の改良及び新人事制度の導入など、社長任期前及び任期内推し進めた人材戦略戦術を詳しく語っていました。

最後に、ほとんどの講演会で繰り返し言う老害防止論及び競争相手論を強調されました。
●第二代住友総理事伊庭貞剛氏(1849-1926)の教え:「事業の進歩発展に最も害をなすものは青年の過失に非ずして老人の跋扈である」
●企業の真の競争相手は同業他社ではなく世の中の変化だ

Mr. Anzaki Satoru lecturing at Kenpo HR Summit 3

Mr. Anzaki Satoru lecturing at Kenpo HR Summit, Sep 2, 2017

9月4日は、18:30~徳島県人会上海交流会に出席し、30数名の日中企業経営者・幹部を対象に語っていました。

この会への出席者が上海進出の徳島県企業又は徳島県企業と何らかの繋がりある企業の経営層メンバー達(中国人が凡そ1/3)で、全員日本語の分かる方なので、通訳を必要としいため、時間的に食事を楽しめて交流も盛り上がりました。

Tokushima Kenjinkai, Shanghai

Mr. Anzaki Satoru at Tokushima Kenjinkai , Shanghai, Sep 4, 2017

この2回の講演交流会の前後は、杭州周辺の乌镇及び西湖、兰溪周辺の諸葛八卦村、上海周辺の蘇州を観光し、江南水郷などの歴史や人文風景を満喫しました。

Visiting Wuzhen

Visiting Wuzhen

Visiting Seiko

Visiting Seiko

Visiting Shokatu Hakkemura

Visiting Shokatu Hakkemura 2

Visiting Shokatu Hakkemura

Visiting Zhuozhengyuan, Suzhou

Visiting Zhuozhengyuan, Suzhou

安崎会长 在浙江省健峰HR高峰会以及徳島县人上海交流会上演讲 ~ 日中草根交流活动报告

安崎会长的日文著作「夢を蒔く」的中文版《播种梦想》(因中国出版社的主张书名改定为《机械巨人 无所畏惧的信念》)于8月末在中国出版了。
安崎会长在新书出版之后立马赶赴浙江省,于9月2日上午在健峰HR高峰会上面对大约1000名参加者(众多中国企业经营层成员)进行了演讲。

这次演讲会主办以及讲师阵营,由以下日中企业的一流经营者组成。
健峰企管集団 叶斯水集団董事长、株式会社小松制作所 前社长/前CEO/本研究会安崎晓会长、华为技术有限公司的高级顾问胡赛雄先生、华立科技股份有限公司の郭峻峰总裁、浙江吉利控股集団的张爱群副总裁、臥龙控股集団有限公司的刘红旗副总裁、海天集団的总裁助理盧文贤先生、健峰企管集団人力资源项目总顾问黄盟尧先生。

安崎会长的演讲主题:小松的人才战略-事业,以人为本

演讲从最近关于小松的热门话题开始,讲解了“日本的小松”如何成长壮大为“世界的小松”、内容不仅包含对产品的“品质与信赖性”的精益求精、还包含对放眼未来的播种梦想型经营的“品质与信赖性”的追求、特别在追求人才的“品质与信赖性”的施政方面详细介绍了技术者培育、商务干部以及社长候补人选的培育制度、为了让“出头鸟出头”而进行的企业风土的改良以及新人事制度等等,他在任社长之前以及在任社长期间大刀阔斧推行的战略战术。

最后,安崎会长强调了他在大多数演讲会上都会重复的老害防止论以及竞争对手论:
●第二代住友总理事伊庭贞刚氏(1849-1926)的教诲:“事业的进步发展的最大障碍,并非青年的过失、而是老人的跋扈”
●企业真正的竞争对手,不是同行其他企业、而是世事的变迁

9月4日18:30开始,安崎会长出席徳島县人会上海交流会,面对30多名日中企业经营者以及干部进行了演讲。

本次会议的参加者都是进入了上海的徳島县企业或者与这些徳島县企业有关联的企业经营成人员(中国人约有1/3),均通晓日文,无需通訳,因此在安崎会长演讲之后众人得以大快朵颐、热烈互动。

2次演讲交流会的前后,安崎会长还游览了杭州附近的乌镇以及西湖、兰溪附近的诸葛八卦村、上海附近的苏州,饱览了江南水乡等地的人文、历史景观。

中国との合作、合弁の開始~「夢を蒔く」(仮称)からの抜粋

安崎会長の中国語版著作「夢を蒔く」(仮称)の出版がカウントダウンに入りました。
本書は決して一個人のキャリア人生に限る内容ではありません。
著者のご友人である関 眞次先生は、本書が「小松製作所」を主人公とする「歴史産業経済大河ドラマ」だとコメントされています。
中国側の出版社が本の名称を変えたいという気持ちも少し分かってきました。

関先生は、本書の後書きにこう書かれています▼
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小松製作所という建設機械メーカーの創業前から現在までの仕事をつぶさに見ることで、明治維新後の日本の工業化の進展、明治産業人の行動、戦後の混乱期からの復興、オイルショック・ドルショックによる混乱、バブル時代の好況、リーマンショックによる不況という、日本の産業史を改めて確認することができたことだ。
 これは、私にとって「小松製作所」を主人公とする「歴史産業経済大河ドラマ」ともいえるものであった。物語は江戸末期、黒船の来港で右往左往する人々の中で、果敢に黒船に乗り込んで談判した土佐藩の志士、竹内綱のエピソードから始まる。彼は、小松製作所の創業者である竹内明太郎の父であった。明治維新後、竹内父子は鉱山業を始め、海外の文献やお雇い外人から最新の知識を学び、それに日本流の創意工夫を加えて、さらに進化させていく…
——

前回のピックアップ内容は、日中国交回復、初訪中という話でした。
その続きの雨降って地固まる「中国との100日交渉」部分は、かなり面白いので気が早く6月25日に掲載してしまいました。
そのため、今日は引き続き「中国との合作、合弁の開始」という部分を掲載いたします。

本書の内容を2か3週間おきにピックアップします。著者は現役時代、中国だけではなく、全世界を舞台にしていたのですが、中国での出版なので、主に中国にかかわる章節の内容をピックアップして載せたいと思います。

中国との合作、合弁の開始

 技術提携契約が調印されると、すぐに中国側の手で工場が建設されることになった。いろいろ既存の工場を見て回ったが「帯に短し、タスキに長し」でなかなか適地が見つからない。最終的に決められた山東省済寧はさら地であったが、済南の空港に近いのでよい選択であった。それでもまだ道路は未整備。孔子誕生の聖地・曲阜経由で悪路を3時間かけて行かなければならない不便な場所であった。最近は、高速道路が整備されとても便利になった。
 我々は、中国側に対し「中国内の部品産業が未発達だから、国産化率を急に上げない方が良い製品を作れる」とアドバイスしたが、中国側は「日本から高価な部品を買わされるのはごめんだ」ということで受け入れられず、彼らは国内での部品生産を急いだ。その結果、我々の予想よりはるかに早く国産化率が80%以上になった。
 契約期間は5年。同時期にエンジンをアメリカのカミンズ社と技術提携していたので、まずまずの製品が国産化された。この製品は、まだ中国製の部品の品質に難点があったので、国際市場では競争力が弱かったが、輸入品の代替としては問題なかった。契約終了後の現在も、山東工程機械集団有限公司として、中国第一のブルドーザメーカーとして発展を続けているのはよかったと思う。契約期間終了後も、若干の部品は国内では生産できなかったので、日本からの供給を続けた。
 1980年代に入り、中国の工業近代化のためのインフラ建設が進展した。これが、中国国内の建設機械メーカーの成長を促した。ブルドーザはうまくいったが、油圧ショベルは戦国時代に突入した。中国政府は、重要性の高い自動車産業の、海外との合作は規制したが、重要度の低い小さい建機は特に規制せず、外資との合作を奨励する姿勢だった。
 私は、建機第三部長の後、本社の管理部長や国内営業本部の部長となり、4年間ほど海外との仕事から離れていたが、1985年に取締役となり、海外事業本部の副本部長となることで復帰した。しかし、このときはプラザ合意後の急激な円高対策、アメリカのアンチダンピング対策や欧米、アジアの海外建設に追われて、中国までは手が回らなかった。
 この間、コマツの中国市場作戦は調査ばかり繰り返し、新規事業の決断が遅れ、油圧ショベルとホイールローダの合作、合弁は手つかずの状況だった。数年後、私は経営企画室長になり、全社の経営戦略全般を担当することとなった。そして、グローバル化推進を加速することにした。
 関係会社事業の整理も、建機の競争力回復と同様に、大きな経営課題であった。エレクトロニクス事業は、開発競争のスピードが速く、シリコンウエハー事業などはコマツ向きではなくなっていた。例外は、メカトロ部品とエキシマレーザー事業だった。
 技術進歩、環境の変化が進むにつれ、私がやるべき仕事の負担が大きくなってきた。片田社長の後の社長を、引き受けざるを得ないかもしれない、と考えるようになったのはこのころである。そして、「なんとしても、グローバル大競争を勝ち抜かなければならない。社長になる前に、円高で打撃を受けた建機事業の競争力回復のための手を打っておきたい」と考えていた。
 私が見つけた課題は、建機事業の経営を「部分最適、全体不適」という状況から解放するということだった。開発、生産、マーケティングなどの部門の中で、それぞれの対策を考えるのではなく、事業全体として俯瞰し、経営判断していく体制を作る必要を感じた。このために、会社の中で最も重要な建機事業を、独立した事業部にしてみようと片田社長と相談し、建設機械事業本部を設立し、私が本部長として陣頭指揮を執ることになった。
 欧米、アジアのグローバル対策が一段落したところで、久しぶりに中国に出かけた。深圳、上海の発展ぶりには目を見張った。建機中古車の需要がどんどん増大していた。油圧ショベルの合作相手は、先述した山東工程機械集団有限公司に決めた。新車需要が増加してきたら、ブルドーザで培った生産能力、資金がものをいうと考えての決定だった。幸いなことに、ブルドーザのころの知り合いが同社で偉くなっていた。みんな私のことを知っているから、仕事はとてもやりやすい。
 このころ、サソリの天ぷらというものを喰わされた。うまくはないが珍しいものだ。そのうちに、サソリが刺身で出てきた。怖がらずに平気な顔をして食べたら、向こうも出さなくなった。それでも、現地では名物料理だそうだ。
 建機の中古車は、「PCを買う」という形で注文が来る。この呼び名はコマツに幸いした。客先は、日本製ショベルならどれでもいいと考えている。PCは、日本ではコマツのショベルのことを指すが、中国では油圧ショベル全体の代名詞となっているから、「PC」の注文は、必然的にコマツへの注文となる。
 中古車は「PC200」という中心機種に人気が集まった。日本で買い付け、中国に流される。このころ、コマツが始めたオークションが盛んになった。高値で競り落としていくのは中国のお客だった。中国のお客は、中東のお客と同様に買い付けの主役の座に躍り出た。その結果、日本のお客は、中古車を買えなくなり、新車を買ってもらうしかなかった。
 我々は、香港からの北上作戦を開始した。まず、中古車用の部品販売見本市を開催し、その開催広告を出すことにした。部品の需要はとても多かったのだ。会場に訪れたお客から中古車の注文を受け、日本から届けるという戦略だ。これを繰り返して、徐々に中国本土を北上して行った。最初は中古車の購入であっても、上客はその後に新車のお客となる。
 済寧の油圧ショベル新工場が完成したとき、私は、この工場の開所式に社長として臨み、「2000年に2000台生産、販売しよう」と中国語で挨拶した。内心では、ずいぶん野心的な目標だと思っていたが、実際には、2000台の期待が、2003年には2万台と10倍に膨らんだ。この後、市場は急減したが、予想以上に膨らみすぎたものがまともな水準に落ち着いたという方が正しい。
 やがて、中国での新車市場が爆発的に増加した。医者が建機を使う土建屋に転業し、油圧ショベルを買って大もうけしたという風評も流れるほどであった。「中国での需要は馬鹿にできないぞ」と、1993年の訪中で実感した。
 中国で国産する油圧ショベルのブランド名を機械にどのように表示するか悩んだ。これは中国ならではの問題であった。昔から「小松」ブランドはブルドーザにつけられて、名前が通っている。だから「小松」と漢字表記を主張する人もいた。一方で、グローバル化の時代だから、他の国と同様の「KOMATSU」とすべきだという声も強かった。最終的には私が「KOMATSU」と決定した。中国人も反対しなかった。今から思うと、これが正解であったと思う。「小松」のことを中国読みで「シャオソン」という人も多いが、ブランド名としての「KOMATSU」が堂々と通用するようになった。

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安崎会长的中文版著作《播种梦想》的出版进入了倒计时阶段。

这本书的内容绝不仅仅局限于一个个人的职业生涯。
借用本书著者的友人関眞次先生的话来说,本书是一部以“小松制作所”为主人公的“历史产业经济大河剧”。
如此,中方出版社想更改书名一事,也是可以理解几分了。
関先生在本书后记里如此写到:
——
……通过深入细致地了解小松制作所这家建设机械制造商自创业前到现在的事业发展历程,得以重新确认了日本产业的历史,包括明治维新之后日本工业化的进展,明治时代产业人的行动、战后混乱期开始的复兴事业、石油冲击及美元冲击导致的混乱、泡沫经济时代的繁荣、雷曼冲击引发的经济不振。
这对我来说,可以说是以“小松制作所”为主人公的“历史产业经济大河电视剧”。故事发生在江户末期,在黑船来港、熙熙攘攘的人群之中,果断地登上黑船进行谈判的土佐藩志士竹內纲揭开了故事的帷幕。他,是小松制作所的创业者竹内明太郎的父亲。明治维新后,竹内父子开始了采矿事业,从海外的文献和雇佣的外国人身上学习最新知识,再加上日本方式的创意功夫,事业得以不停地发展壮大……
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现在,本博正在2或者3周一次,从这本新书里摘选、分享一些内容。
虽说著者的职业生涯舞台并非仅限于中国、而是整个世界,但是因本书即将在中国出版,因此着重摘选分享一些与中国有关的片段内容。

上次摘选、分享了“中日邦交正常化后首访中国”部分的内容。接下来的“不打不相交-和中国的百日商务谈判”部分因为读来太有意思,已经于6月25日摘选并分享过,因此今天就摘选其后续部分的内容。

开始与中国合作办厂

 签署技术提携契约之后,由中方立马着手建厂的事情就定了下来。不过转着看了好多现成的工厂,都是高不成低不就,找不到合适的地方。最终决定的地方在山东省济宁,虽然是一片未经整理过的空地,但是离济南机场较近,就选定了。然而,道路未经整修,去那里要经过孔子诞生圣地曲阜、花费3个小时,极为不便。最近,高速道路修好了,已经是今非昔比,非常方便。
 我们对中国方提议:“中国国内的零部件产业还不发达,不要急于提高国产化比率为好,如此才能制造出优质产品”,然而中国方面却说:“让我们从日本买高价零部件,那不行”,他们没有接受我们的建议,而是加快了在国内制造零部件的步伐。其结果是,国产化比率早早地达到了80%,远远超过了我们的预测。
 契约期间为5年。同一时期里,因中方也与美国康明斯公司进行发动机方面的技术提携,所以产品的国产化水平还算说得过去。不过由于使用的中国制零部件质量方面的弱点,此产品在国际市场上竞争力尚弱,但是在中国国内,替代进口产品却已经没有什么问题了。令我欣慰的是,在契约期间结束之后,到了现在,山东工程机械集团有限公司作为推土机厂家中国第一,依旧没有停下发展的步伐。契約期間结束后,有些零部件也因为中国国内还不能生产,而由日本继续供应。
 进入1980年代,以实现中国工业近代化为目的的基础设施建设也得以发展,从而促进了中国国内建設机械厂家的成長。推土机生产工作比较顺畅,然而液压挖掘机却进入了战国時代。中国政府对于特别重要的汽车产业与海外的合作方面制定了严格的规章制度,但是对重要度较低的建机却不设规制,对他们与外资的合作反持奖励的态度。
 我从建机第三部长位置先后调任总公司管理部长、国内营业本部部长、约有4年左右从事与海外业务无关的工作。但是在1985年成为董事、就任海外事业本部副部长而再次从事海外工作。然而,这个时期我由于对应广场协议引发的日元升值、美国的反倾销对策以及欧美、亚洲的海外建设事业而忙得团团转,无暇顾及中国方面的事情。
 在此期间,小松在中国市场仅是反复实施调查,对于是否开拓新事业犹疑不决,液压挖掘机以及轮式装载机的合作、合营也无从着手。几年之后,我在就任经营企划室长,全面负责整个公司的经营战略之后,决定加速推进全球化事业。
 此时,整理关联公司的事业、以及重振建机竞争力,都是巨大的经营课题。电子事业方面,随着开发竞争的加速,小松已经对硅片事业力不从心。不过也有例外,那便是机电组件和准分子激光事业。
 随着技术的进步、环境的变化,我感觉到自己肩负的责任也在增大。那个时候我想到,也许不得不接片田总经理的班,担任下一任总经理。因此,我考虑到“无论如何,必须从这场全球化大竞争中胜出。在成为总经理之前,先采取措施,重振被日元升值打击的建机事业竞争力”。
 我发现首先需要解决的课题,是将建机事业的经营体制从“部分最适、全体不适”这个不良状況解放出来。我认识到,不能从开发、生产、营销等各个部门的角度单独去考虑一个个孤立的对策,而是必须通过俯瞰整个事业进行经营判断、健全经营体制。为此,我想到了将公司里最重要的建机事业做为一个独立的事业部分离出来,于是我与片田总经理商量后,设立了建设机械事业本部,我作为本部长坐镇前沿,指挥工作。
 欧美、亚洲的全球化对策告一段落之后,我出差去了久违的中国。深圳、上海发展迅猛,其巨大的变化让我膛目结舌。建机中古车需求快速增大。液压挖掘机的合作伙伴定为前文提及的山东工程机械集団有限公司。之所以如此决定,是因为考虑到新车的需求增加后,推土机事业中成长起来的生产能力及资金都可大大排上用场。幸运的是,从事推土机事业时代结识的人都已在公司里身居要职。大家都了解我,因此工作做起来是得心应手。
 那时,我被款待吃了蝎子天妇罗。味道不怎么样,但是罕见珍贵。过了一会,生的蝎子肉也上桌了。我脸不改色地吃了,对方也没有再上这道菜。据说在当地,那是一道名贵菜肴。
 建机的中古车,订单是以“买PC”的形式发来。这个名称给小松带来了幸事。客户用它表示需要挖掘机,只要是日本制就行。在日本,PC专指小松的挖掘机,在中国却泛指所有的液压挖掘机,所以中方记载“PC”的订单就成了订购小松机械的订单。
 在中古车里,主要是“PC200”这个机种受到众多客户的喜爱,客户到日本购买后、运到中国转卖。那时,小松开始的拍卖活动甚为红火。出高价拍下商品的都是中国客户。中国的客户,与中东客户同样,都跨进了采购主角之列。在日本,小松的客户也分为购买新车、购买中古车两种,而中古车拍卖价格由于外国买家的参入而上涨。结果,造成日本的中古车买家们低价购车的打算落空。好在日本市场的新车价格,在激烈的竞争中被压低,从世界范围来看新车价格也偏低, 因此这些想买中古车以节约经费的日本客户如意算盘落空,只好加点钱购买新车。
我们开始了从香港开始的北上作战。首先决定了举办用于中古车的零部件销售展览会,并为此发行举办展销会的广告。因为零部件的需求极大,因此计划在会场接受来场客户的中古车订单,从日本发货。这项活动不停地进行,慢慢地在中国本土从南朝北推进。虽说客户最初会购买中古车,但是之后,其中也有上宾会转向购买新车。
济宁的液压挖掘机新工厂建成之后,我作为总经理出席了这个工场的开幕式。我在开幕式上用中文致辞说:“让我们到2000年生产并销售2000台”。我当时心想这个目标的野心有些大了,然而实际产量却远远超过我所期待的2000台,2003年产量膨胀10倍,高达2万台。那之后,市场需求急速减低,不过从当初的预测来看,这只是膨胀过度的产量回复到了正常水准而已。
不久,中国市场对于新车的需求爆发式地增长起来,甚而有医生转向土木建筑业、购入液压挖掘机发了横财之类的传闻。这验证了我在1993年访问中国时的切身感受:中国的市场需求不可小觑。
在中国国产出来的液压挖掘机上,品牌名如何表示是件令人头疼的事情。这也是在中国才会出现的问题。以前在推土机上表示的品牌名是“小松”两个汉字,易于理解接受。因此,有人主张液压挖掘机也用“小松”两个汉字。然而,主张在全球化时代,与其他国家一样使用“KOMATSU”的声音也很响亮。最终我决定了使用“KOMATSU”,中国人也并没有反対。到今天想来,这个决定是正确的。如此以来,虽然“小松”在中国还被很多人读为“XIAOSONG”,但是作为品牌名的“KOMATSU”也被叫响、堂堂正正地通用开了。

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