大学時代、関心は現代中国に~「夢を蒔く」からの抜粋

前回は、コマツ製品の中国での国産化を提案した安崎先生の善意と燃えるような熱意がどこから生まれたのかに対して、来月中国で出版予定の新書で回答を探ってみました。すると、「子供時代から抱いていた中国への興味」という章節の、「祖父の漢詩が、中国へ誘った」部分に辿り着きました。
今日は、その話の続きになります。今日の抜粋内容から、著者が子供から大人へ成長し興味が変わったように読取りますが、中国というキーワードが変わっていないため、むしろ子供時代興味津々だった古代中国文化への夢のような興味が現実味を帯びてきて、キャリア形成に繋がったと言えよう。

大学時代、関心は現代中国に

 中国への関心は、大学時代の第2外国語選択の際に、躊躇なく中国語を選ばせた。大学生活の6年間、中国語を学び続けたが、大してものにならなかった。しかし、その後の60年の今日に至るまで、中国、および中国人に対する興味を持ち続ける入口となったのは、この学習経験だ。中国の専門家にはならなかったが、政治、経済、社会、文化などの複眼的視点で中国を理解し、変化を観察する喜びを与えてくれた。中国に住んだ経験はないが、通算40回ぐらいは中国各地を訪問し、多くの人々と接することができた。
 中国のみならず、旧ソ連、ロシア、アメリカにも、たびたび出張で出かけたが、日中、露中、米中それぞれの2国関係、そして、日中米露という多国間関係から、中国を分析する視点を持てたことが、私の中国理解に大きな助けとなった。国土は広く、人口も多い。私は、「群盲撫象」のたぐいの一人だが、中国の存在が、私の人生に鮮やかな彩りを加えてくれたことは間違いない。
 1958年、私がまだ大学生のころ、一橋大学OBである船会社の大社長が大学に講演に来た。日本と中国との国交はまだ回復していなかった。北京に毛沢東の共産党政権ができて間もないころであった。
「若い学生諸君よ、隣国である中国に関心を持て。いまは国交もないが、将来の日中関係は必ず飛躍的に発展する。隣の大国とどうつきあうかが今後の課題。中国は、日本にとって大事な隣国である」との先輩の言葉に、現在の中国の様子をもっと深く知りたい、という思いはますます強くなった。
 中国語を学びながら、中国に関する情報には、ことさら注意深く耳を傾けるようになっていた。大躍進、人民公社、文化大革命……これらのキーワードを目にするたびに、心を躍らせていたが、親や家族より国が大事、という文化大革命の理念には半信半疑であった。
 中国に関する本もたくさん読んだ。魯迅の小説には惹かれるものがあった。歴史学者である宮崎市定の孫文との交友録も図書館で見つけた。
 子供のころは、漢詩、三国志などの昔の中国に興味を持っていたが、年を重ねるにつれ、現代中国へと関心が変化してきた。

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上篇博文里,对于提出小松产品在中国国产化建议的安崎先生那份善意以及近乎燃点的热情是如何产生、又是如何高涨近乎沸点,求问下月将在中国出版的新书,我在“萌芽于孩提时代的中国情结”这一章节的“外祖父的汉诗,诱发了我对中国的兴趣”这部分文字里找到了答案。
今天继续这个话题。从今天的摘选看来,著者随着长大成人、兴趣似乎也发生了变化,然而“中国”这个关键词却并没有改变,因此与其说是兴趣的变化,不如说著者随着年龄的增长,梦境里吸纳进了现实性的养分,孩童时代那份对古代中国文化近乎梦幻般的兴趣渐渐转化、对其职业生涯产生了极为良好的作用。

大学时代转向关注现代中国

对中国的兴趣,让我在大学时代选择第二外语的时候,毫不犹豫地选择了中文。在6年的大学生活中,我一直坚持学习中文,然而觉得学到的东西远远不够。不过正是那段中文的学习经历,让我在迄今为止的整整60年里,对中国以及中国人的浓厚兴趣经久不衰。虽然没有成为研究中国的专家,但是却由于养成了多角观察政治、经济、社会、文化等的习惯,让我对中国的理解以及观察活动变得驾轻就熟、其乐无穷。虽然从未在中国生活过,但是大约共计40次访问中国各地,得以接触了很多人物。
不仅是中国,由于也经常出差旧苏联、俄罗斯、美国,所以我从中日、中俄、中美,这些2国关系、进而从中日美俄多国关系出发对中国进行分析的视觉,都大大地深化了我对中国的理解。不过中国国土辽阔、人口众多,因此我对中国的了解只不过如盲人摸象的程度,然而毫无疑问,中国的存在,让我的人生之路如此多姿多彩、充实饱满。
 1958年,我还是大学生的时代,有位一桥大学退役前辈、某造船公司的总经理到大学演讲。那是日本和中国还没有恢复外交关系,毛泽东的共产党政权刚在北京建立不久的事情。“年轻的学生诸君们,要关注邻国中国。现在两国虽然还没有外交关系,但是将来中日关系一定会有飞跃性的发展。如何与邻国大国打交道,是今后的课题。中国对于日本而言,是非常重要的邻国”,这位前辈的话激活了我想更加深入了解中国现状的愿望,这种愿望越来越强烈了。
 于是我一边学习中文,一边事无巨细地倾听、收集有关中国的信息,这渐渐地成了一个习惯。大跃进、人民公社、文化大革命……每当看见这些关键词,心就会激荡起来,但是对于国家高于父母或者家族这种文化大革命的理念,我却是半信半疑。
 与中国有关的书籍我也读了很多。曾被魯迅的小说吸引。在图书馆还发现了历史学家宮崎市定写的他与孙文的交友录。
 如此这般,我孩童时代对汉诗、三国志等古代中国的兴趣,随着年龄的增长,转变成了对现代中国的关心。

祖父の漢詩が、中国へ誘った~「夢を蒔く」からの抜粋

  前回のブログに、若頃の安崎先生が中国官僚との「雨降って地固まる」体験談を載せました。
  商談が喧嘩まで発展し双方の絆が壊される可能性が高いので決して良いことではない。しかし、当時、きっと中国の近代化に貢献したいと、コマツ製品の中国での国産化を提案した安崎先生の善意と燃えるような熱意が充分に伝わったので、コマツと中国側との絆を壊すことなく、逆に深めた良い喧嘩でした。
  ところで、その善意と熱意はどこから生まれ、燃えそうになったのか?この新書で探ってみたら、「子供時代から抱いていた中国への興味」という章節に辿り着いた。著者の同意を頂いて少しピックアップして掲載しましょう。
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祖父の漢詩が、中国へ誘った

by 土屋康太郎-11 years old- Mr. Anzaki's  grandson

by 土屋康太郎-11 years old-Mr. Anzaki’s grandson

  私の中国への関心の扉を開いてくれたのは、母方の祖父だった。この祖父は、四国徳島の藩主だった蜂須賀家の末裔で、名を蜂須賀喜信といい、明治、大正時代の陸軍軍人であった。軍人であったが、剛直というより、むしろ文人の風格があり、書、画をよくした。彼の娘である我が母も、年を取ってからよく絵を描いていた。本書の挿絵を描いた土屋康太郎は私の11歳の孫で、現在小学校6年生。本人は、ごく普通の子供だが、絵の才能はあり、日本でも、また一時居住していたアメリカの小学校でも、この才能は評価されていた。私には、祖父の才能は遺伝していないので、孫の一人が、祖父の血筋を受け継いだようだ。
  この祖父が、私が中学生のころ、よく漢詩や論語の一節を読み聞かせてくれていた。内容をはっきり理解したわけではなかったが、杜甫、李白、白楽天などの詩は耳に心地よく響いていたことを記憶している。子供心にも訴えかける「何か」があったのだと思う。
  その次は、三国志である。吉川英治が易しく書いた『三国志』ではなく、難易度の高い『三国志演義』の翻訳書を読んだ。中学生にはとても難しかったが、知り合いの本屋で立ち読みを繰り返した。次第に内容に惹かれ、毎日の本屋通いを続けた。ついには、本屋の主人が、「この椅子に座りなさい」と言ってくれるほど、この物語に興味を持った。  この後、やはり翻訳書ではあるが、社会人になった後も、多くの作家の『三国志』を読み漁った。諸葛孔明のすごさにも惹かれたが、曹操が一番好きな登場人物だった…

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  上篇博文里,分享了年轻时安崎先生与中国官僚之间“不打不相交”的体验之谈。
  谈判发展到吵架绝对不是件好事,因极有可能让双方关系破裂。然而,当时一定是安崎先生让中方充分感受到他期望对中国近代化建设做出贡献而提出小松产品在中国国产化建议的善意以及近乎燃点的热情,使得小松与中方的关系不仅没被破坏,而是加深了,可说是一场良性的吵架。
  不过,如此善意和热情是如何产生、又是如何高涨近乎沸点的呢?求问这本新书,在“萌芽于孩提时代的中国情结”这一章里我似乎找到了其源头。获得作者同意,摘选一部分内容,分享如下。

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外祖父的汉诗,诱发了我对中国的兴趣

  最初启发我、使我开始对中国产生兴趣的是外祖父。外祖父是四国德岛蜂須贺藩的后裔,名叫蜂須贺喜信,是跨明治、大正时代的陆军军人。他虽身为军人,然而与其说刚强,不如说更具有文人之风格,喜欢书画、舞文弄墨。他的女儿既我的母亲,上了年纪后也经常作画。本书里插图的作者土屋康太郎是我11岁的孙子,现在是小学6年级学生。他是一个普通的孩子,却有绘画天赋,不仅在日本、而且在曾经生活过的美国的小学都获得了好评。看来,外祖父的才能没有遗传给我,却隔代遗传给了我的一个孙子。
  我这位外祖父,在我中学时代,经常让我听他阅读汉诗和论语。我虽然并不太明白内容,然而杜甫、李白、白乐天的诗还是听得津津有味。我想,诗句里或许有一种能拨动儿童心灵的神奇力量吧。
  接着我还读了三国志。读的不是吉川英治改编的三国演义,而是难易度比较高的三国演义的翻译版。对于中学生来说,这书读起来难度极大,不过我经常去熟人的书店站着反复阅读。渐渐地被书的内容吸引,竟然每天必去阅读。兴趣越来越大,对我见惯不惯的书店主人也不由招呼我:“坐这把椅子”。 这以后,在进入社会后,我也不停地收罗出自于许多作家笔下的各种各样三国志翻译版本读了个遍。虽然诸葛亮的非凡让我叹服不已,然而在所有登场人物之中,我最喜欢的却是曹操……

雨降って地固まる~中国との100日交渉

雨降って地固まる~中国との100日交渉

Meeting in China
先日、安崎会長の中国で出版予定の新書コンテンツからピックアップして掲載した「1杯100万ドルのウオッカ商談手をたたいて快哉!」は、若頃の安崎会長が一人前のコマツ人としてソ連での「雨降って地固まる」経験談でした。
経験談といえば、本書にほかにも「雨降って地固まる」経験談が数多くあり、今日は中国官僚との大喧嘩の部分をピックアップしましょう。この大喧嘩は、コマツが中国と仲良しになるための素晴らしい前奏曲だったと言って良いと思います。

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 …IISTの修学旅行で、アメリカ各地を巡った後、国務省高官から中国に関する話を聞き、米中の国交回復も近いなと予想していたので、ニクソン大統領(当時)訪中のニュースにも、日本のマスコミほどは驚かなかった。
 そして、1972年、日中の国交が回復され、1978年には日中平和友好条約が調印される。この当時は、同じ共産主義国家でありながら、ソ連と中国の仲はよくなかった。条約に覇権条項を「入れる、入れない」と論議が長引いた記憶がある。中国は、当時のフルシチョフ第一書記のソ連を「覇権主義」と批判をしていた。
 日中国交回復の年、田中首相と周恩来総理との会談で「迷惑」という言葉が問題となった。歓迎式典で周恩来総理が挨拶した後、田中首相は戦争責任に触れ、「過去数十年にわたって、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明する」と詫びたが、この中の「迷惑をかけた」という表現が、「軽すぎる。そのようなひと言で片付けられることではない」と非難を浴びた。
 私はこのことを、日本工業倶楽部の会報(2015年4月号、第252号)に書いた。矢吹晋氏の『日中相互誤解の濫觴』という論文の一部を紹介したのである。矢吹氏の論文は言う。「田中角栄首相の挨拶の中で“迷惑をおかけした”は、中国語では、“添麻煩”。これは、婦人のスカートに水がかかる程度の意味で小さくて軽い、と周恩来首相との間で論争があった。何とか喧嘩を収めた後、毛沢東主席との会談で、田中首相は“日本の言葉は中国から入ったとはいえ、これは万感の思いを込めてお詫びする時にも使う誠心誠意の謝罪です”と説明した。毛沢東主席は“喧嘩をしてこそ初めて仲良くなれます。わかりました。迷惑の言葉の使い方はあなたの方が上手なようです”と、贈り物として『楚辞集註』6冊を渡したそうだ」という内容だ。

 私にも、中国のお役人との間に喧嘩の経験がある。コマツと中国の技術交流の結果を、技術提携契約としてまとめ、中国に小松ブルドーザを生産する工場を建設しよう、という話になったときのことである。コマツと技術進出口総公司との契約交渉は難航して100日を費やした。
 中国では文化大革命が終結し、改革開放の時代に入っていた。鄧小平の「鞱光養晦」政策の始まりである。外国からの技術導入も、案件によっては問題がなくなり、我々の交渉が本格的に進んだ。私は建機第三部長として、ソ連、中国を担当していた。この交渉の途中、谷牧副首相が枚方のブルドーザ工場視察で来日した。私は、大阪のホテルから工場まで、先導のパトカーの後をノンストップで走り、ご案内した。後で知ったことだが、谷牧北首相は、中国工業近代化のため、当時のめぼしい外国の工業技術の視察を指導していたとのことだった。コマツの大阪工場でも、真剣かつ熱心に視察し、積極的に質問をされていたことを記憶している。
 さて、コマツと中国の技術提携交渉は、外国貿易省傘下の技術進出口総公司がプラント建設、技術導入契約の窓口であった。交渉の場には、機械工業部の技術者が背後に控えていた。コマツは海外事業本部の弓野専務が団長、私が副団長で契約条文の交渉に当たっていた。100日という長い交渉の間、弓野専務は時々帰国した。専務が留守の間は私が団長役を務めた。
 中国側の契約書原案は既に印刷されており、「これにただサインするだけだ」と公司の担当者は言ったが、中国側に都合のよい一方的な条項が多く、とてもすべては受け入れがたい。そこで、条文ごとの交渉が開始された。このやり方は、対ソ連の契約でも経験済みであった。また、私は同様の契約にあたっていたアメリカ会社の担当役員と情報交換を行っていたので、譲れない条項は、丁寧に理由を説明して、粘り強く交渉を続けた。最大の問題は、提供技術の範囲と対価、指導料であった。
 あるとき、先方の担当者から「安崎さん。あなたは、たかがブルドーザの技術提供ぐらいで、中国側に高い金を払えと要求するが、唐の時代の遣唐使に漢字や仏教を教えた中国は、日本から料金などもらわずに、ただで教えてあげたのですよ」と真顔で言われた。私はびっくりして相手の顔をのぞき込んだが、相手はケロッとした顔ですましていた。
 契約はいよいよ最終段階に入った。ほぼ合意が成立し、明日は調印式の段取りを相談しようというところまで漕ぎつけた。ところが翌日、全く別の人が現れ、「今までの交渉を白紙に戻す。日本企業との契約で、このような契約条項は認められない。交渉はやり直しだ」と宣言した。背後を眺めると、先方の技術者たちは困った顔をしているだけで、誰も口を開こうとしない。私は、さすがに頭に血が上った。生涯最高の怒りがおそってきた。三国志にあった「馬上憤死」の場面が一瞬頭をよぎった。心臓が破裂するのではないかというくらい激しく鼓動した。顔は真っ赤になり、呼吸も一瞬止まりそうになった。
「あなたは、100日の間、我々が真剣に交渉してきた結果を、中国政府を代表して、全く無視するのですか? とんでもない話だ。これでは、我々は交渉を取りやめ日本に帰ることにします。中国の近代化に貢献したいと、国産化を提案した、我々の善意を踏みにじるような交渉のやり方をするなら、この話はここで終わりだ」と言い放ち、当方の同僚や、先方の技術者たちが驚いて止めるのを振り切り、怒りに震えた呼吸を整えてから、一人退出してしまった。その日は宿舎に戻り、帰国のための荷造りを始めた。
 翌朝、先方から連絡が入った。「皆さん、ご一緒に来てください」とのことだった。怒りがまだ収まらない私だったが、帰国の挨拶はすべきだと思い直して出かけて行ったが、昨日の担当者はいない。技術者組の団長から、「先に合意した内容で話がつきました。契約調印の準備をしましょう」と言われて安堵の胸をなで下ろした。
 河合社長に連絡を入れ、社長と弓野専務に契約調印のため訪中してもらうことを決め、その日取りを決めた。社長と弓野専務の訪中を待ち、調印が無事終了した。調印式後の宴会に先立ち、先方の技術者組団長の副局長に「安崎さん。東洋の君子は、あのように顔を真っ赤にして怒り狂ったように話すものではありませんよ」と諭された。私は何も言えず、ただうなずくしかなかった。後で聞いたら、私のあまりの剣幕に、中国側がびっくりして矛を収めたと言うことだった。
 政治家と違い、喧嘩の仕方が下手な私の、若気の至りの結末であった。

不打不相交~和中国的100天商务谈判

前些日子分享了安崎会长将在中国出版の新书摘选”1杯让谈判增值100万美元的伏特加~请勿盲目模仿”,是安崎会长年轻时作为一名小松人在苏联的一段“不打不相交”的经验之谈。
说到“不打不相交”,本书里另外还有不少经验之谈,今天就分享一段他与中国官僚之间的一场精彩大战。这场大战,可以说是一段促成了小松与中国相知相交的精彩的前奏曲。

…参加IIST修学旅行、遍访美国各地之后,从国务省高官关于中国的发言当中,我预感到中日恢复外交关系之日已经为时不远了,因此当我看到当时的尼克松总统访问中国的消息时,并没有像日本的媒体那么震惊。
 之后,1972年,中日恢复了外交关系,1978年两国签订了中日和平条约。当时,苏联和中国虽然同为共产主义国家,关系却已经产生了裂痕。记得双方围绕是否将霸权条款写入条约里产生了分歧,讨论因而被延长。中国批判当时的赫鲁晓夫第一书记领导的苏联实行“覇权主义”。
 在中日恢复外交关系那一年,田中首相与周恩来总理之间的会谈中,“迷惑”这个词成了一个问题。周恩来总理在欢迎仪式上致辞后,田中首相提及战争责任问题并进行了道歉:“在过去的数十年里,我国给中国国民添了极大的麻烦(麻烦的日语:迷惑),我对于此段历史,再次表示深切的反省之意”,然而,道歉发言里的“添了麻烦”这个表诉受到了中方的非难“那么轻描淡写的一句话不可能大事化了吧”。
 我曾在日本工业俱乐部的会报(2015年4月号、第252号)上写过这件事情,介绍了矢吹晋氏的题为《探寻日中相互不信任的原点》(日语书名:《日中相互誤解の濫觴》)的论文里的部分内容。矢引氏在论文里说:“田中角荣首相的讲话之中的“迷惑をおかけした”,这在中文里的意思是“添了麻煩”。听起来只不过像把水撒到了女人裙子上的程度,给人以轻描淡写的感觉,因此与周恩来总理之间产生了争论。双方争论终于平息下来之后,在与毛泽东主席的会谈之中,田中首相就这个日语词做了如此说明:“日本的语言虽然是来自于中国,然而,这个词也能用于百感交集道歉之时,用于诚心诚意谢罪之中”。毛泽东主席回答:“不打不相识,明白了。看来还是你们善于使用迷惑这个词”,并作为礼物,向田中首相赠送了一部《楚辞集注》6冊。

 我也有过与中国的官僚争吵的经验。那是小松与中国进行技术交流,已经做好了技术提携契约,正要达成协议在中国建设工厂以生产小松推土机的时候。关于这份契约,小松与中国技术进出口总公司之间的谈判工作进展不顺,所以整整花费了100天。
 文化大革命结束了,中国进入了改革开放的时代,邓小平的“韬光养晦”政策随之开始实施。如此一来,从外国引入技术方面的有些问题得以解决,我们的谈判工作也得到了实质性的推进。我作为建机第三部长,负责苏联、中国方面的工作。在这场谈判工作之中,谷牧副总理来日视察了枚方的推土机工厂。我负责自大阪的酒店到工厂的向导工作,跟在前面开路的警车之后,马不停蹄地忙前忙后。后来我得知,为了推进中国工业近代化,谷牧副总理主导了前往外国视察先进工业技术之事。记得他在小松的大阪工厂,也极为认真热情地视察现场、并积极地提出问题。
 却说小松与中国的技术提携谈判,负责成套设备以及技术导入契约工作的窗口是外国贸易部属下的技术进出口总公司。在谈判现场,中方有机械矿业部的技术人员待命。小松方则是访中团长、海外事业本部的弓野专务以及副团长的我参与契约条款的谈判工作。在长达100天的谈判期间,弓野专务时而回国,专务不在的时候,由我代行团长之职。
 中国方的契约书草案已经打印了出来,“在这上面签字就行”,中方公司的担当者如此说,然而很多条款的内容都是利于中国方面、对于日方而言难以完全接受。因此,我们开始逐条进行交涉。这个方法,来自于与苏联签署契约时积累的经验。另外,关于那些小松与美国公司契约中内容相同的部分,我与美国公司的担当董事互通了信息,因此针对不能让步的条款,我耐心细致地向对方说明理由、进行了持之以恒的交涉工作。最大的问题在于提供技术的范围、中方支付给小松的价格以及技术指导报酬。
 有一次,对方的担当一本正经地对我说:“安崎先生,你们最多不过给我们提供推土机技术而已,就向中国索取高额报酬,而中国向遣唐使传授了汉字和佛教,却并没有向日本要钱、免费教给你们了哦”。我吃惊地探头看他的脸色,他像啥事没有似的不了了之了。
 契约的谈判工作终于进入了最后阶段,合意几乎都已经达成、正在打算第二天商议签字仪式的事情。然而到了第二天,来了一位从没有露过面的人,宣称“至今为止的谈判完全取消。与日本企业之间的契约里,这样的条款不能放入。谈判必须从头开始”。看他的背后,对方技术人员们虽然脸色犯难,但是谁也不开口。这还了得,我一下子冒火了。前所未有的愤怒向我袭来。一瞬间,三国志里王朗马上愤死的场面涌上心头。心脏就像即将破裂似地剧烈跳动,脸色发红,呼吸也几乎要停止了。
“你能代表中国政府,全部无视我们辛辛苦苦100天,脚踏实地、认真谈判得出的结果?太荒谬了。这样的话,我们也停止谈判、回日本。我们怀着为中国的近代化做贡献的意愿,提出了小松产品在中国国产化的建议,而你却如此践踏我们的善意,这话就到此为止”,我丢下这些狠话,不顾大吃一惊的我方同僚以及对方技术人员们的阻拦、整理了一下气得哆嗦的呼吸、一个人离开了。那天回到宿舍、开始打点行李准备回国。
 第二天早上,听说对方有消息来了,是“请大家一起来”。我虽然怒气还没有平息,不过想到回国之前的道别还是应该进行的,于是就去了。昨天那位担当不在场。技术人员组的团长说:“就按照先前达成共识的内容办。准备签字仪式吧。”,听了他的话,我放下了心头大石。
 接下来我联系了河合总经理、与他商量后决定让弓野专务赶赴中国出席签字仪式、并定下了日程。然后等来了弓野专务、顺利地完成了签字仪式。在签字仪式后、宴会开始之前,作为对方技术人员组团长的副局长对我谆谆教诲:“安崎先生,东洋君子不应该那样满脸通红、勃然大怒地说话哦”。我除了点头认可什么也说不出来了。后来听说,我那异乎寻常的汹汹气势让中国方面大吃一惊后偃旗息鼓了。
 没有政治家的手腕、没有吵架的技巧,幸得血气方刚成全了我。

1杯100万ドルのウォッカ商談~手をたたいて快哉!

1杯100万ドルのウォッカ商談~無謀な真似をせずに…

中国語の翻訳者として、安崎会長の中国語の本を「三国」にたとえるなら、すでに中国で出版された「聚变」がかたい経済経営理論的な内容が多くて「三国志」だと言えて、これから中国で出版予定の「播种梦想」(仮称)が面白い部分がかなり増えたので「三国演義」だと言いたい。特に手をたたいて快哉を叫んだ内容がありました⇒「1杯100万ドルのウォッカ商談」。著者の許可をいただいて、シェアしましょう。ただし、ご注意頂きたいのが、コマツが旧蘇連でCATと壮絶な戦いを経て、売り手市場を作り上げたことが背景でしょうから、無謀な真似をせずに・・・

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…ソ連での契約調印後は、おきまりのウォッカ・パーティだ。何度かウォッカを飲んでいる内にわかってきたのは、私は6杯までは正気を保てるが、7杯で意識不明になってしまうということだった。7杯飲んだときは、必ずひっくり返ってしまい、ベッドの上で朝を迎える結末になる。服は着たまま、靴も履いたままという格好だ。party
 飲めないウォッカを無理して飲むうちに、体調を崩した。このままの生活をしていると、身体を悪くするか、仕事を辞めるかの選択となってしまう。ある日、無理矢理飲ませようとする商談相手に、「もう飲めない。これ以上飲ませるなら、次からの商談では1杯100万ドルの値上げをするぞ」と脅かした。相手も酔っているので、「OK、OK。いいから飲め」としつこく強要した。仕方がないので、無理をして飲み、いつも通りひっくり返ることになった。
 次の商談で価格を合意した後、「ところで、前回のウォッカ代を足してもらおう。あと100万ドル払え」と大人気なく、しかし断固として100万ドルの上乗せ交渉をした。当然、相手は拒否する。しかし、私も引き下がらない。2日粘って、結局100万ドル追加での契約調印に成功した。
 この100万ドルが、私のものになるわけではなく、当然会社の売上高となるのだが、当時の日ソ貿易担当で、こんなことをした日本人はいないだろう。その後、相手も私には「飲め、飲め」の無理強いはしなくなった。まさに100万ドルの威力だ…

1杯让谈判增值100万美元的伏特加~请勿盲目模仿…

作为中文译者,如果用三国来比喻安崎会长的中文书,那么已经在中国出版的《聚变》因其较难啃的经济经营理论方面的内容较多可喻之为《三国志》,而今后预计在中国出版的《播种梦想》(假定书名)里妙趣横生的内容大大增多,因此我想将它喻称为《三国演義》。里面有一段特别让我拍手称快的内容⇒《1杯让谈判增值100万美元的伏特加》。获得著者许可,分享如下。不过需要注意的是,安崎会长当时敢于如此行事是因为小松在苏联经过了与卡特彼勒之间你死我活竞争之后,打造出了卖方市场吧,因此谨防盲目模仿。

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…与苏联方签订契約之后,按照惯例举行了伏特加酒宴会。喝过几次伏特加后,我已经清楚自己的酒量,通常喝到6杯还能保持清醒,而喝到第7杯就会意识不清,喝完第7杯的结果必定是穿着衣服、鞋子就翻倒了,躺在床上直到第二天早上才能清醒过来。
 喝不了伏特加,却勉强喝,以至于喝坏了身体。如此下去,总有一天我将不得不面临喝垮身体还是辞掉工作的两难抉择。有一天,我威胁向我强行劝酒的商谈对手说:“不能再喝了。你如果硬要我继续喝,下一次商谈时提价,1杯算100万美元”。对方也已经醉了,继续不罢休地强行向我劝酒:“OK、OK。喝吧”。没办法,我只好勉强喝下,与通常情况一样,喝翻了。
 下一次商谈中双方就价格达成合意后,我像犯了孩子脾气似地、却毅然决然地向对方交涉加价100万美元:“话说,上次的伏特加费用加上吧。你得付100万美元”。当然,对方拒绝了,但是我却也不依不饶、绝不相让。你来我往斗了2天,结果是我成功地让对方加上100万美元、签订了契约。
 这100万美元当然不是进入了我的腰包、而是计入公司的销售额里。当时的日苏贸易担当里,除了我应该没有第二个人干过这样的事情。那之后,商谈对手再也不对我强行劝酒了,100万美元之巨大威力真是不容小觑…

KOMTRAX—建機業界でIoT時代の先頭を走っているコマツの伝家の宝刀

KOMTRAX—建機業界でIoT時代の先頭を走っているコマツの伝家の宝刀

近年、IoT(Internet of Things)という言葉が熱い!
ネットで探してみると、言葉として生まれたのが1990年代だというのもあり、もっと前だという説もあります。
IoTの活用事例も意外に多く見つかりました。夢のような話だと思われた事が、次から次へと現実になってきています。
5年後の世界はどうなっているのでしょう?楽しみですね。

さて、安崎先生の新しい本にも、安崎先生がコマツ社長だった1998年に販売開始の「KOMTRAX」というIoT活用事例を詳しく書かれています。中国を含み世界で大活躍しているその姿がとっても素敵だとして、安崎先生の同意をいただき、この部分をピックアップすることになりました。

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 グローバル化に引き続き、IT技術が日進月歩し、ビジネスのみならず、一般の生活そのものを大きく変える時代を目前にしている、IoTの時代、AIの時代だ。コマツは、稼働機械の中にICチップを埋め込み、客先に販売した機械の稼働情報を客先よりも早くつかめる「KOMTRAX」というシステム導入により、建機業界ではIoT時代の先頭を走っているが、今後遠くない未来には、人間の衣服、靴、装身具、さらには皮膚、内臓、脳などにもチップを埋め込むようになるかもしれない。また、AIロボットも進化を遂げ、想像もできないIoTの時代が到来するだろう。ロボット社長が、人間社長よりよい業績を挙げるかもしれない。このような時代が来るにはどのくらいの年月がかかるだろうか。100年ぐらい必要だろうか。

 1980年代、中国の建機市場がまだ育っていないころ、私は、販売後のアフターサービスを充実させることに関心があった。建設機械は、厳しい条件下で稼働させることが多いので、修理などのアフターサービスが不可欠だからである。購入先の機械進出口総公司には、「機械納入後のサービスをやりたい」と申し出ていた。当時は政情の関係もあり、サービス員を現地に送り込むことはできなかった。しかし、大きな事故、故障が発生したときのみ、サービス員の受け入れが認められる状況だった。
 公司の担当者は、「中国の国土は広大だ。わずかばかりのサービス員を派遣してくれても、砂に水をまくようなものだ」と、私の申し入れを取り合わなかった。
 建設機械は故障するものである。だから定期的な点検、修理サービスは世界共通の課題だ。今はサービス員の派遣を拒否されているが、いずれ中国でも建設機械の修理サービスのニーズは高まると確信していた。

 ICT(Information and Communication Technology=情報通信技術)の進歩が、建設機械のアフターサービスに革命をもたらした。建設機械にチップを埋め込み、GPS、移動通信、Internet、パソコン、携帯電話をネットワークして、管理センターで総合的に情報管理するシステムを作り上げた。これが、KOMTRAXという名の管理システムだ。元々は、客先の車両機械のサービス用に、コマツの技術者が開発したものだ。遠く離れた場所にある機械と、管理センターを結んだ情報追跡システムである。エンジン、油圧システムの稼働情報、燃料消費などの情報をオンラインで入手するために考案したものだ。このアイデアは、IoTの走りともいえるものだったが、狙っていたビジネスモデル特許は取得できなかった。しかし、この分野で先行したコマツは、次のような3点の特徴を武器に、競争を優位に進めることができるようになった。
KOMATSU COMTRAX
・第一の優位性:故障情報などを即時にオンラインで取得することができる。
 客先の稼働現場にある機械一台ごとの故障情報などの詳細が瞬時に把握できる。小さな故障の場合は、客先に修理箇所、修理方法を教えられる。大故障の場合には、直ちにコマツのサービスネットワークが稼働する。故障内容があらかじめ判明しているので、修理に必要な部品や工具を持ってサービス員が訪問し、迅速に修理することができる。機械の休止時間をできるだけ短くしたいという、客先の要求を満たすことができる。

・第二の優位性:客先の稼働情報をオンラインで把握することができる。
 管理センターで、今日何時間稼働したか、毎日の燃料消費量、燃費を把握できる。機械が稼働現場を移動したという位置情報もすぐにわかる。不自然な遠距離移動があった場合には、機械の盗難ではないかと客先に連絡する。中国全土で稼働している機械の、毎日の稼働情報を把握できるというのは、素晴らしいビッグ・データである。今月と前月のデータを比較すれば、景気が上向きなのか下向きなのかの情報が、毎日オンラインで手に入る。これを注意深く観察すれば、「景気が好調を持続しているので、増産して在庫を厚めに持とう」「稼働時間の減少が続いているので、在庫を絞ろう」という経営上の決定が容易に行える。また、燃料消費情報は、売り込む際のセールスポイントとして使える。

・第三の優位性:代金回収が楽になった。
 これは、中国で効果的だったもので、いわば副産物といえるものだ。建設機械は高価なものだから。頭金を30%もらい、残りは割賦販売契約により、2年とか3年の間、毎月いくらかを分割して回収するのが普通だ。ところが、毎月の割賦代金を回収するのが、意外に大変なことであった。お金があるのに払わない客先もいる。代金支払いを催告しても払わない。再三の催告でも支払がないときには、機械を引き揚げることもある。それほどではない場合に登場するのがKOMTRAXならではの機能だ。遠隔操作でエンジンを停止させることが可能なのだ。契約時にこのことを明示して、客先の了解をもらって販売している。支払い遅延の客先には、催告を繰り返すが、それでも支払わないときには伝家の宝刀を抜き、エンジンを停止させて機械の稼働を止める。機械を稼働させたい客先は、エンジンが止まったと文句を言ってくる。このとき代理店は、「お客さん、今月の割賦代金が未払いですね。支払っていただければ、エンジンはすぐに動きます」と答える。どうしても機械を動かしたい客先は、即座に支払うことになる。そうすると遠隔操作でエンジン停止を解除させ、機械を稼働させられるようにするのである。お金があっても。代金をなかなか支払わない客先に対する代金回収には、大きな効果を発揮した。思わぬ副産物であった…

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康查士(KOMTRAX)—物联网时代建机业界领军企业小松的传家宝刀

近年,物联网(IoT-Internet of Things)变成了一个热词!
我在网上搜了一下,有说这词诞生于1990年代、也有诞生得更早的说法。
另外,在网上还发现物联网概念的活用事例出乎意料地多。以前听似梦话一般的事情,一个一个都在变成现实。
5年之后的世界会是什么样呢?拭目以待。

话说安崎先生也在新书里,详细地记载了他在小松总经理任期内的物联网活用事例-1998年开始销售的康查士(KOMTRAX)系统。康查士(KOMTRAX)系统,在包含中国的世界各地英姿飒爽、大显神通,现征得安崎先生的同意,将这一部分内容分享如下。

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1980年代,中国的建设机械市场还没有成长起来的时候,我就认识到充实产品售后服务的重要性。因为建设机械多是在严酷的条件下运转,所以修理等售后服务不可或缺。我向购入方的机械进出口总公司提出了“希望开展机械配送之后的服务工作”的意愿。然而,因为受到当时政治状况的制约,派遣服务人员到现地的提议没有能够实现,不过发生了比较大的事故、故障之时,可以获准派遣服务人员赶赴现地。
 公司的担当者觉得我的提议不可行,他说:“中国国土辽阔。仅仅派几个服务人员去,只不过像是在沙漠里洒点水一样,无济于事”。
 建设机械难免发生故障,因此提供定期检查、修理服务是一个世界共通性的课题。所以我当时相信,虽然现在派遣服务人员被拒,但是将来有一天在中国,建设机械的修理服务需求一定会增长。

 ICT(Information and Communication Technology=信息通信技术)的进步,引发了建设机械售后服务的变革。小松开发了新的管理系统,就是将芯片装入建设机械里、实现GPS、移动通信、因特网、电脑、手提电话的网络化、由管理中心进行综合性信息管理。这个管理系统被命名为KOMTRAX(康查士)。最初的目的本来是为客户提供车辆机械服务,由小松的技术人员开发出来。此系统的作用是将远距离的机械与管理中心联网,进行信息追踪。也就是说,设计生产它的原意是打算用来在线获取发动机、液压系统的运转以及燃油消耗信息。可以说,这个创意基于物联网思维,然而遗憾的是,期望的商业模式专利没有能够取得。但是值得庆幸的是,在这个分野先行一步的小松,具备了下述3个特征并以此为武器,也可以说是拥有了3个竞争优势,赢取了更多的发展机会。

・第一优势:能够立即在线获取机械故障等信息。
能够在一瞬之间把握在客户现场运转的每一台机械的故障等详细信息。如果是小故障,小松的处理方法是向客户说明应该修理的部位以及修理方法。而遇上大故障,小松的服务网络则立即启动。由于系统已经事先判明了故障内容,所以服务人员能够带着修理所需的零部件以及工具、赶赴现场迅速进行修理。这样便能将机械的暂停运转时间尽力缩短,满足客先的需求。

・第二优势:能够在线把握客户的经营管理状况信息。
 管理中心能够掌握客户方当天的机械运转时间、每天的燃料消耗量、燃料效率之类的信息。机械在运转现场一旦移动,其位置信息也能立即掌握。所以小松若发现了不同寻常的远距离移动,便会联系客户,确认是否发生了机械被盗的事故。能够掌握在中国各地运转机械的每日运转信息,可以说获取的是极具参考价值的大数据。每天都可以在线取得信息,并且通过比较这个月与上个月的数据,观察景気的好坏。细致深入的观察,让经营决策也变得简易轻松,比如“景気持续不错,可以扩大生产、增加库存”,“运转时间持续减少,该减少库存”。另外,在推销产品时,燃油消耗信息也能作为一个卖点加以利用。

・第三优势:贷款的回收变得简单易行。
 在中国产生的这个效果,可以说是个副产品。建设机械价格昂贵,因此小松通常是收取30%销售额为首付,剩下的销售额签订分期付款销售契约,在2年或者3年之内,每个月收取约定的分期支付款项。然而,每月收取分期支付款超乎寻常地艰难。有的客户有钱也不支付,被小松催促也不支付。对于再三催促也不支付的客户,机械有可能被回收。发展到此地步之前登场的机械便是KOMTRAX,小松能用它的远距离操作功能,停止拖欠费用客户方机械发动机的运转。小松在签约时会向客户明示这个功能,让买方知情的情况下出售产品。对于拖欠款项、反复催促也不支付的客户,小松便会拔出这把传家宝刀、使发动机停止工作、机械停止运行。如此一来,希望运转机械的客户,便会向小松抱怨发动机停止工作了。而代理店则会回答:“您公司还拖欠着这个月的分期付款额啊。只要您家支付,发动机立马就恢复工作”。无论如何也想让机械运转的客户,马上就会付钱。然后,小松也立马进行远距离操作以恢复发动机的工作。对于有钱却拖欠机械款项的客户,KOMTRAX在回收费用方面发挥了极大的效应。这个效应是一个出乎意料的副产品……

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