「人間は自分が一番大切」?~ 社員や客先に対しての配慮の必要性

引き続き、昨年9月に中国で出版された安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)の内容をピックアップして掲載いたします。

今日は「人間は自分が一番大切」という部分になります。安崎会長によると、社員や客先に対しての配慮の必要性として、社長を退任するときに考えたということです。

人間は自分が一番大切?

この表題には反発を感じる人が多いだろう。「自分勝手はいけない」「世のため、人のために生きるのが人間」というのが世間の常識だろう。
人の一生を考えてみよう。誕生、祝福されて生まれた人が大多数。それでも子供は親を選べない。人生は、親から受け継いだ遺伝子を元に、自分の努力を加えて切り開くものだ。
教育もそうだ。学校が自分を選ぶのではなく、親か自分が学校を選ぶ。仕事も同じだ。人間の寿命は長くて100歳、棺桶に入る時、我が人生は面白かった、と思える人は幸せだ。どのくらいの人が、そう思えるだろう?
自分が一番大切と考える人生は成功とつながるか? 答えは多分NOだろう。それでも私がこの表題を最初に持ってきたのには理由がある。
社長に選任された時、退任した時、共に「人間は自分が一番大切なのではないだろうか」という感想を持ったからだ。
株主総会を経て、取締役会で正式に社長に選任された時、世界中の顧客、従業員、取引先の数を思った。この人たちに対する責任は重いなと。特に従業員、普通名詞の従業員ではなく、それぞれの顔を持った1人ひとりの社員、その家族の幸福のための責任の重さをズシリと感じたのだ。彼らは会社のために働くのか?
取締役会で私の退任と新任社長の選任を決めた時、就任時から6年経っていたが、頭の中に、またこの感想が蘇ってきた。
私は世界中で働いている社員たちが、会社の事業発展のために働いてくれていると、錯覚していなかったか? 彼らは、「100%自分のために働いている」と考えて経営した方が正解ではなかったか?
正直のところこの問題に対する自分の答えは引退後の現在も分からない。失敗も成功もある社長の仕事を振り返ると、失敗の原因は、大多数の世の人々が「自分を一番大事だと考えている」ことを忘れた意思決定、人事等にあるように思うからだ。
「事業は人なり」の言葉通り、人をよく理解することが人の活用につながる。

—–

继续摘选分享去年9月在中国出版的安崎会长的著作《夢を蒔く》(中文版由于中国出版方的主张书名由《播种梦想》改为:《机械巨人小松 无所畏惧的信念》)里的内容。
今日分享“首重自爱”部分。据安崎会长说,这是他在退任总经理之际的感悟,即是经营者必须关爱体谅员工以及客户,这样才能做出利于他们的决定以及人事制度等等。

首重自爱?

或许这个标题会引起许多人的反感吧,因为通常“不可任性妄为”、“人,应该为世界、为他人而活”才是这个世界的常识。
然而,想一想人的一生吧。多数人被诞下、被祝福而来到人世,然而孩子却无法选择父母。人生之路,是以继承的父母遗传基因为基本,加上自己的努力而拓展开来。教育也是如此,学校不是由自己、而是由父母选择。工作也不一定完全如愿以偿。人的寿命,至多也不过100来岁,在人生暮年、行将就木之时,觉得自己度过了有意义人生的人,才是幸福的人。那么,有多少人能如此想呢?
把自己摆在第一位的人,能走上成功的人生之路吗?回答可能是否定的吧。即使如此,我也将这个定作了本章最初内容的标题,为什么呢?理由如下。
因为,在就任总经理的时候、在退任总经理的时候,我都产生了“人,不是自己最为重要吗?”的感受。
经过股东大会,在股东会议上被正式选认为总经理的时候,我心里想着遍及世界各地顾客、从业人员、交易客户的数目,感觉到对这些人的责任之重。特别是从业人员,感觉到他们不是这个普通的名词表现的从业人员,而是一个个拥有不同面孔的员工、更感觉到我肩上担子里还有一份沉甸甸的他们家族的幸福。他们会为了公司而努力工作吗?
在股东会议上决定我的退任以及新任总经理人选的时候、从就任时开始已经过了6年,然而脑海里却重新浮现了这种感想。
全世界的小松员工们都在为公司事业的发展而努力工作,这是不是我的错觉呢?是不是认为他们“100%在为了自己而工作”才更有利于经营呢?
说实话,对于这个问题,直至今日我也没有得出明确答案。不过回顾自己既有失败也有成功、作为总经理的工作历程,我感觉到,失败的原因应该在于大多数的世人在做决策以及人事决定时都忘记了“认为自己最为重要”这个事实。
企业,以人为本。作为经营者,必须先做到设身处地为人着想、理解他人,才能吸引人才、拢住人心、才能人尽其才。

—–

中国関連の仕事に就こうと決意(続き)~小松入社

9月に中国で出版された安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)の内容をピックアップして掲載しています。
今日は前回「中国関連の仕事に就こうと決意」部分のの続きになります。

中国関連の仕事に就こうと決意(続き)~小松入社

 1961年のコマツ入社は偶然の産物だった。大手町ビルにあった商社の先輩を訪ねた帰り、ビルの廊下を歩いていたら、大学の同級生に呼び止められた。「昼飯は食ったか?」「まだだよ」「それなら俺についてこい。ただ飯が食えるぞ」と言う。彼について行ったら、当時同じ大手町ビルに本社があったコマツに連れて行かれた。コマツで昼飯をごちそうになり、帰ろうとしたら、人事部の人に「これから面接するから、君も受けていかないか」と誘われた。「一宿一飯の恩義」と言うが、昼飯をごちそうになった義理もあるので、面接を受けることにした。「機械メーカーだから、中国にも関係あるな」と軽い気持ちで面接を受けた。
 集団面接では、日本経済の将来像について、試験官と議論になった。自分の勝手な反論意見を話したが、あまり感心されていないなと感じた。ところが、帰宅したら入社試験合格の電報が届いた。コマツのことはよく知らなかった。父は、「機械なら三菱はどうだ」と言った。コマツに入ることは、あまり賛成ではなかったようだったが、結局は「自分で決めろ」ということになった。私は、これも何かの縁だと感じ、その日のうちにコマツ入社を決心した。結果として、中国に惹かれて就職先を決めたのだ。
 学生時代、先生たちの思い出はたくさんある。ビンタを食らった先生にも恩義を感じたが、中学の校長先生は「お前はものになる」と励ましてくれた。英語の先生は「田舎の秀才で満足したらだめだ」と釘をさした。数学の先生は「カンニングはする方も悪いが、させる方がもっと悪い」と言った。教頭先生は何十年も経った後、地元の徳島新聞に私がコマツの社長に選任されたと報ずる記事を見て、連絡してこられた。先生は、一流の画家として活躍していた。「新聞に、お前がシベリアによく行くと書いてあった。自分はソ連に抑留されて辛い目にあったが、バイカル湖の近くにいた。思い出にバイカル湖をもう一度見てきた。そのときに描いた絵をあげるから受け取ってくれ」と話された。先生はもう亡くなられたが、このバイカル湖の絵は、毎朝ベッドの上から私を見つめている。
 小学校の先生は「腹が減っているだろうから、家に来い」と誘ってくれてカレーライスをご馳走になった。
 これらの先生方の励ましなくして、私の人生はなかった。東京の徳島県人会長になって、後輩の公立校の先生方を表彰するファンドを作り応援した。恩返しのつもりだった。

—–

 本博正在摘选分享9月在中国出版的安崎会长的著作《夢を蒔く》(中文版由于中国出版方的主张书名由《播种梦想》改为:《机械巨人小松 无所畏惧的信念》)里的内容。
 今天继上次,分享“决意从事与中国相关的工作”章节的后续部分。

决意从事与中国相关的工作

 1961年进入小松是源自一个偶然的机会。有一天,我去大手町大楼拜访在那里一家商社工作的前辈之后出来、在大楼走廊上时,一位同学叫住了我。“吃过午饭没有?”“还没吃”“那跟我走吧。有个地方可以免费吃饭”。于是我就跟着他,他带着我去了当时本社也在大手町大楼里的小松公司。在小松吃过午饭,正想离开,人事部担当邀请我“现在开始面接,你也参加吧”。想起“一宿一饭”这句话、感觉应该报答这一顿午饭之恩,于是决定了去参加面接。“既是机械厂家,应该和中国有关系吧”,如此想着,很随意地参加了面接。
 在集体面接中,就日本经济的未来,我与面试官进行了讨论。我直率而随性地阐述了自己的反驳意见,不过觉得自己似乎并没能打动对方。但是意外的是,回家后就收到了电报,通知我的入社考试已经合格。当时对于小松,我并不了解。父亲也说:“要进机械公司的话,三菱如何?”。他似乎不怎么赞成我进入小松,不过最终还是让我自己决定。我感觉到了一种奇妙的缘分,当天就做出了进入小松的决定。就结果而言,是对中国的浓厚兴趣让我做出了这个决定。
 回顾学生时代,有关老师们的记忆极为丰富多彩。想起那位扇了我耳光的老师,现在亦是感恩戴德。中学的校长先生曾鼓励我“你一定会成为有用之才”。英语老师则警示我:“不要仅为成了个乡村秀才就沾沾自喜、骄傲自满”。数学老师说“考试作弊者是坏学生,纵容作弊者更坏”。过了几十年后,教导主任在德岛新闻上看到我被选任为小松总经理的报道后,与我取得了联系。这位老师作为一流画家,甚为活跃。他对我说:“看报纸上写你经常去西伯利亚。我曾被苏联拘留而吃尽了苦头,那时被扣在贝加尔湖附近。后来我重游旧地去过一次。我把那时做的一幅画送给你,收下吧”。这位老师已经故去,然而每天早上我一睁眼就能看到这副贝加尔湖画作,冥冥之中感觉到犹如他在床的上方凝视着我。
小学老师时而邀请我:“肚子饿了吧,来我家”,招待我吃咖喱饭。
 没有这些老师的激励,我的人生定不会如此丰满。饮水思源,在担任东京的徳岛县人会长时,我设立了基金以表彰后辈们就读的公立学校的老师们,用这种方式表达对老师们的感恩之情。

—–

安崎暁会長「感謝の会」開催~奥様のご期待に応えて食事療法で闘病!

安崎暁会長「感謝の会」開催~奥様のご期待に応えて食事療法で闘病!

Mr. satoru anzaki party未期ガンと診断されて延命治療よりも”Quality of Life”を優先した当研究会安崎暁会長は、12月11日(月)にANAインターコンチネンタルホテル東京B1で生前葬に当たる「感謝の会」を開催しました。 人生で巡り合ったおよそ1000人の来場者に握手したりありがとうと言ってました。

Mr.. Satoru Anzaki party会の終盤頃、会長の故郷徳島県の素晴らしい阿波踊りも披露されて、来場者達を感動で包む心温まるイベントになりました。

人生の幕をこんな素敵な閉じ方で閉じようとする安崎会長は、来場者達だけじゃなくて、まだ元気に生きている世界中の人々に大きな力を与えてくれました。

ご家族は延命治療をしないことに同意しているのですが、奥様からの「まだ頑張れば生きられるんじゃないの」「まだ一緒に行きたい」というご期待に応じて、退院後ご自宅で食事療法を行っているそうです。

世界中の人々を励ました安崎先生、是非奥様のご期待に応えて頑張って、後10年生きてまた素晴らしいイベントでお祝いしましょう!

当サイト及びFacebookで延命治療以外の療法をご連絡いただいた方々、記事を投稿いただいた方々、その他問い合わせを寄せて頂いた方々、漏れなくメールで闘病中の安崎会長へご報告しております。現状、ご連絡頂いたすべての方々へのご返事が難しいのですが、ありがとうとお伝えさせていただきます。

記念として、ネット上山ほどの媒体や個人の記事からピックアップしたもののURLを貼り付けておきます。 (19ヶ国の言葉の記事)
日本経済新聞 末期がん、元気なうちに「感謝の会」 元コマツ社長の安崎さん
産経新聞 末期がんの安崎元コマツ社長が生前葬「ありがとうと言えたこと、満足」
読売新聞 末期がんのコマツ元社長、感謝伝える「生前葬」
NHK NEWS WEB 末期がん元社長 最期の選択
ホウドウキョク 「残された時間を大切に家族と過ごす」コマツ・安崎暁元社長が“生前葬”
MAG2NEWS 【感動】元コマツ社長が日経に出した個人広告に心打たれる…
FEELY コマツ元社長が、個人で出した『新聞広告』 内容に「大きな器」「美しい」
語学道 いろんな意味合いで、こちらこそ安崎暁先生に感謝を申し上げたい
英語 Satoru Anzaki, former Komatsu president battling cancer, holds farewell party in Tokyo
英語 Satoru Anzaki: Dying Japanese man throws ‘end of life’ party
英語 Dying Japanese businessman throws ‘end of life’ party at Tokyo hotel
中国語 日本老板患癌放弃治疗还为自己举办生前葬礼 为追逐生活品质
中国語 向大家說聲謝謝與再見 日本企業家辦「餞別」派對
ノルウェイ語 Døende japansk forretningsmann holdt «avslutning på livet»-fest på hotell
オランダ語 Terminale zakenman organiseert ‘eindelevensparty’ voor 1.000gasten
ポルトガル語 Organiza festa para se despedir da vida – Insólitos – Correio da Manhã
ベトナム語 Doanh nhân Nhật bị ung thư giai đoạn cuối mở tiệc thết đãi 1.000 người
インドネシア語 Divonis Kanker, Konglomerat Jepang Adakan Pesta Perpisahan
ハンガリー語 Ezer ismerősét hívta meg szülinapi partijára a 80 éves japán üzletember, aki halálos beteg.
トルコ語 Kanser hastası iş adamından ‘hayata veda’ partisi
アルバニア語 Biznesmeni “feston” vdekjen e tij, mbi 1 mijë të ftuar
スワヒリ語 Satoru Anzaki: Mfanyabiashara aandaa sherehe ya kuaga kabla ya kufa Japan
リトアニア語 Mirtinos diagnozės sulaukęs vyras nusprendė surengti vakarėlį savo …
クロアチア語 Japanac pozvao 1.000 ljudi na proslavu “kraja života”
エストニア語 Video: surev jaapanlane pidas elulõpupeo, millele kutsus 1000 külalist
ボスニア語 Japanac pozvao 1.000 ljudi na proslavu “kraja života”
アゼルバイジャン語 İş adamı ölümündən əvvəl “Həyata vida” partisi verdi
ソマリ語 Nin lo sheegay in uu dhimanayo oo “xaflad” soo dhoweyn dhimashadiisa ku dhigtay hotel
シンハラ語 දිවියෙන් සමුගැනීම සමරන්න සාදයක්.

Facebook投稿ピックアップ(クリックして画像へ、もう一回クリックすればはっきり見えるようになります)
Re Mr. Satoru Anzaki Party

安崎晓会长 召开「感谢会」~回应夫人的期待-饮食疗法,加油!

被诊断为未期癌症、拒绝延命治疗而优先选择生活质量的本研究会安崎晓会长,于 12月11日(周一)在ANAインターコンチネンタルホテル东京B1召开了相当于生前葬礼的「感谢会」,与人生之中有所交集的大约1000名到会者握手言谢。

来自于会长故乡德岛县的精彩的阿波舞表演,让到会者们深受感动,使这场会成为了一场温暖而激励人心的盛大活动。

安崎会长用如此精彩的方式拉下自己的人生大幕,不仅激励了来场者,也激励了世界上许许多多还健康地活着的人们。

虽说安崎会长的家人们同意了他不接受延命治疗的决定,不过因为感于夫人「加加油不是可以活下去吗」「还想和你一起活着」之語,所以退院之后在家服从夫人安排,接受饮食疗法。
敬请激励了世上许许多多活着的人的安崎会长,回应夫人的期待,加油再活10年,再开一场精彩的庆祝会!

本博客网以及Facebook收到各位朋友关于延命治疗以外的疗法信息、投稿信息以及其他咨询事项,都已通过电子邮件无一遗漏地向斗病中的安崎会长汇报。虽然会长难以一一回复,但是让本博向各位朋友致谢,衷心地感谢大家的关心。

作为本次感谢会的纪念,本博从网上数不胜数的媒体以及个人投稿里选择了19个国家语言的投稿,将其链接贴上。

中国関連の仕事に就こうと決意

 9月に中国で出版された安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)の内容を抜粋してきました。
 主に、正文から中国にかかわるコンテンツをピックアップしてきましたが、内容がばらばらになってしまっているので、先月遡って2回に分けてまえがきと序章を掲載しました。
 これからも2、3週間1回の頻度で本書コンテンツをピックアップして掲載していきます。

中国関連の仕事に就こうと決意

 大学での授業は楽しかった。特に、歴史学、哲学、心理学、経済学、地理学の講義には学問的興味をひかれた。しかし、一時は実業家になろうと思っていた私だが、入学当時は経営学、会計学、商法、労務管理などの実学には全く興味を持てなかった。またまた、実業の世界を目指すのか、学者の道を選ぶのかを迷い始めた。
 何か運動もしなければと思い、弓道部に入り、弓を引く楽しさを覚えた。
 1年生の夏休み、道場で弓の練習をしてから図書館へ行った。そこに、渋沢栄一の顔写真付のポスターを見つけた。渋沢栄一についての論文募集のポスターだった。彼は、一橋大学の創設者の一人で、明治時代の日本を代表する実業家ということは知ってはいたが、それ以上の知識は皆無だった。早速その日、図書館で彼の伝記を読んだ。
 幕末の少年時代、勤王の志士を目指し、その後、西欧視察、明治維新の大変革に加わり、国立銀行、証券取引所、ガス事業、損害保険など次々と事業を興し、民間企業発展の基礎を築いた。同時代の岩崎弥太郎のように三菱財閥を作るのでもなく、政府から金をむしり取るのでもなく、論語と算盤の二刀使いを説いて、日本資本主義の父と呼ばれた。彼に関する本を何冊か読み、論文をまとめて懸賞に応募した。入選はしなかったが佳作に選ばれ、いくらかの賞金を手に入れた。「論語と算盤」という彼の主張に触れたのは、このときが最初だった。
 外国語の講義は、英語が必須で、そのほかに第二外国語を受講しなければならなかった。ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語、中国語の中から選ぶのだ。ドイツ語を選択するのは主流派だ。ドイツ語は新宿高校の時代にかじった。一度やったから楽かとも思った。何となく惹かれたのは中国語だった。漢詩を祖父に習ったこともあり、読んだことのある三国志、水滸伝にワクワクした記憶もある。中国は、1949年に共産党政権が成立したばかりの新しい国だった。人口の多さを考えると、将来役に立つかもしれないと思い、結局中国語を学ぶことにした。
 一橋大学は、一学年750人という小さな大学だったが、ロシア語、中国語を選択する学生は少数派だった。中国語は、日本人の熊野教授、中国人の斳先生、二人の先生に学生はわずか6人。とても家族的雰囲気で中国語を習い始めた。最初に口ずさんだ中国語は、「花紅柳緑 春天暖和 夏天熱 秋天涼 冬天冷」だ。未だにしっかり記憶している。
 ゼミナールは熊野正平(熊野中国語大辞典の著者)、石田龍次郎(人文地理)、山田雄三(理論経済学)の諸先生に学んだ。上原専禄、増田四郎先生などの歴史家、中山伊知郎、高島善哉先生などの経済学者の講義もおもしろかった。
 私は、中国の将来に関する関心を強く持っていた。この国の政治と経済、人民の生活はどうなるのか、共産主義と中国人の考えは合うのか、世界の中でどのような立場を取るのかなどを考え、中国専門の学者になって生涯研究を続けたいなどと夢想していた。建国間もない、中国の事情をもっと知りたくて、神田の中国・アジアの専門書店である内山書店にも時々行って、雑誌などを買っていた。
 大学4年になっても、まだ学者になるか、経済人になるかを決めかねていた。そこで、卒業後に学士入学で経済学部に編入してさらに2年間学ぶことにした。大学院への進学ではなく、学部を二つ回る選択をしたのは、まだ将来を決められなかったからだ。経済学部系の学問、社会学、哲学、歴史学などの人文科学系の学問のどちらにも興味があった。そして都合、6年間の学生生活を楽しむことになった。経済学部でも弓道部の活動は続け、成長経済学、経済発展理論を勉強した。ここでもよい先生にも恵まれていた。中国経済の実態を、ユニークな視点で分析する小島麗逸さんとは80歳のいまも交流が続いている。
 山田雄三教授には、「中国経済をやるにしても、ケインズやマルクスだけでなく、ハイエクも勉強しろ」とアドバイスを受けた。学問の道も厳しい。自分の中の怠け者精神に気づき、結局学者になることを諦めた。一生、学問に明け暮れるほどの根性は自分にはないと判定し、実業の世界を選んだのだった。
 卒業後、どのような会社に入ろうかと考えた。何となく中国との関係が深くなりそうな会社を選ぼうとは思っていた。先生や知人は、貿易金融の東京銀行を勧めた。このほか、鉄鋼、肥料、海運、商社、機械などどの業種から選ぼうかと模索した。ある先輩は、「一橋の学生は金融と商社に行くやつが多すぎる。もっとメーカーにも目を向けろ」と言った。そういえば、渋沢栄一も金融だけでなく産業を大事にしろと言っていたなと思い出した。(続き)

—–

 本博连续摘选分享了9月在中国出版的安崎会长的著作《夢を蒔く》(中文版由于中国出版方的主张书名由《播种梦想》改为:《机械巨人小松 无所畏惧的信念》)里的内容。
 摘选内容主要是与中国有关的部分,不过觉得有点杂乱,所以上个月倒回去分享了本书的“前言”以及“序章”部分的内容。
 今后也2、3周1次摘选并分享与本著内容。

决意从事与中国相关的工作

   我的大学生活过得极为愉快,尤其对历史学、哲学、心理学、经济学、地理学的讲座感兴趣、学习热情高涨。然而,一时老想着成为实业家的我,入学当初对于经营学、会计学、商法、劳务管理等实践科学却毫无兴趣。所以我又开始犹豫,是以进入实业界为目标,还是应该走上治学之路呢?
 考虑到必须参加体育运动,我加入了弓道部、尝试了拉弓的乐趣。
记得在一年级时的暑假里,我先到练功场练习拉弓,然后去图书馆。在那里看到了载有涉泽荣一脸部照片的海报,那是关于涉泽荣一的论文征稿的海报。他是一桥大学创设人之一,是明治时代日本的代表性实业家,当时我对他的了解仅限于此。那天我在图书馆赶紧读了他的传记。
 他在幕府末期的少年时代,立志成为勤王志士,后来参与了西欧视察、明治维新等重大变革、开创了国立银行、证券交易所、煤气事业、损害保険等等一些列事业,为民间企业的发展打下了基础。他没像同时代的岩崎弥太郎那样建立三菱财阀之类、也不曾花费心思向政府索取资金,而是力主论语和算盘的两立。他被尊为日本资本主义之父。接下来我又读了另外几本关于他的书,写了论文应募奖品。虽然没能入选,却入围佳作,获得了一点奖金。这是我初次接触他关于“论语与算盘”的主张。
 外语学习,英语为必修课,除此之外还需要从德语、法语、西班牙语、俄罗斯语、中文这些外语之中选修一门第二外语。选修德语为主流派。德语,我在上新宿高中时代曾经学过,因此想来要是重新学习应该比较轻松。然而,我却总是不由被中文吸引。我曾向外祖父学习汉诗,读过三国志、水浒传,这些记忆都极大地刺激了我。新中国随1949年共产党政权成立而建国不久。因其人口众多,想来中文将来应该用得上,所以我最终决定了选修中文。
 当时的一桥大学只有一学年750人的规模,选修俄语和中文的学生也为数极少。教授中文的只有日本人熊野教授和中国人斳先生二人,学生仅仅6人。我就是在如此家庭氛围之中开始了中文的学习。最初吟咏的中文有“花红柳绿 春天暖和 夏天热 秋天凉 冬天冷”,这些句子到了今天依然记忆犹新。
 我参加了熊野正平(熊野中国语大辞典的著者)、石田龙次郎(人文地理)、山田雄三(理论经济学)诸位老师的研讨会,广泛地学习知识。上原专禄、增田四郎先生等历史学家、中山伊知郎、高島善哉先生等经济学家的讲座听起来也妙趣横生、受益匪浅。
 另外,我对中国的未来的兴趣也愈发浓厚了。这个国家的政治与经济以及人民的生活将如何改变、共产主义思想是否适合于中国人的观念、在世界中处于何种立场等等,思考着这些问题,我梦想着自己成为研究中国的专家、终生从事于中国研究工作之中。为了深入了解刚刚建国的中国,我时而去神田的中国及亚洲专业书店内山书店购买杂志等相关资料。
 直到升入大学4年级,我还在为该踏上学者之路、还是商界之路而犹豫不决。于是乎,最终我决定在毕业后参加学士入学考试、编入经济学部继续学习2年。之所以没选进入大学院攻读硕士、而是选读两个不同的学部,也是因为尚未做出决定将来该走哪条路的原因。我对经济学学问、以及社会学、哲学、历史学等人文科学学问都颇感兴趣,这使得我愉快地度过了6年大学生活。进入经济学部后,我一边继续参加弓道部的体育活动,一边学习成长经济学、经济发展理论。在这里也有幸得遇一位好老师、以独特视点分析中国经济实态的小島丽逸老师,到了80岁的现在,我与这位老师还保持着联系。
 山田雄三教授亦给了我建议:“学习中国经济,别只是研究凯恩斯和马克思,哈耶克的理论也该学学”。后来感觉学问之路也是坎坎坷坷,更发现自己的懒惰性情难以克服,因此终究放弃了成为学者的打算。自认为没有足够的毅力去终生致力于做学问,于是选择了进入实业界这条人生之路。
 我开始考虑毕业后该进入什么样的公司,总觉得该选择那种与中国有密切关系的公司。有些老师和熟人向我推荐贸易金融业界的东京银行。另外,我也试着想过从钢铁、肥料、海运、商社、机械等业种里求职。有位前辈对我说:“进入金融公司和商社的一桥大学学生太多,多看看厂家吧”。这话让我想起,涉泽荣一先生也说过,不仅要重视金融,也应该重视产业之类的话。(待续)

—–

百年小松、若さ健在—序章~「夢を蒔く」から

 9月に中国で出版された安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)の内容を抜粋してきました。
 主に、正文から中国にかかわるコンテンツを数回ピックアップしてきましたが、内容がばらばらになってしまっているので、先々週から少し体系的にできるのかと考えながら、ページをめぐるとまえがきや序章にに辿り「これです!」と思いました。
 そして、先々週掲載したまえがきの続きとして序章を掲載しましょう。

百年小松、若さ健在

 もうすぐ2021年がくる。中国はおそらくこの年に中国共産党創設100周年を盛大に祝うであろう。
 コマツは日本で、また世界中の拠点で小松製作所創立100周年を祝賀する。2021年にはどのような発展を遂げているであろうか。
 この不思議な縁は、私自身についても言えることだ。私がコマツに入社した理由の一つが、中国関連の仕事に就きたいとの思いだった。私は、大学生活を6年間送ったが、第一外国語の英語以外に、第二外国語を選択する必要があった。多くの学生が、ドイツ語、フランス語、スペイン語などを選択する中、私は中国語を選んだ。子供の頃、祖父に漢詩を習ったこと、三国志、水滸伝などのおもしろさに惹かれていたことが選択理由の一つだった。中国語の授業は、先生2人に学生6人という小さなクラスだったが、家族的な雰囲気の中で楽しく学ぶことができた。「今は中国とは国交がないけれど、そのうちに中国と密接な関係になる」という先生の言葉もあり、勉強には熱が入った。
 就職の時期が迫り、「コマツは機械メーカーだから、中国とビジネスをする機会がある」という期待が、入社の動機でもあった。入社後の夢は「北京事務所長になること」と勝手に描いていた。この夢は果たされることなく、夢で終わったが、その後、私の会社生活の節目、節目で私は、中国とのビジネスに関わることになった。
 1972年9月に日中国交が回復した。翌年私は、当時の社長であった河合良一さんに、「中国にブルドーザ工場を作りましょう」と提言した。その後、何度も中国を訪れ、交渉を繰り返し、コマツと中国人技術者たちとの技術交流を重ねていった。
 そして、私が社長になった1995年には、中国に「小松常林建機公司」「小松山推建機公司」「小松常林鋳造公司」を設立、翌年には「小松(上海)有限公司」を設立、中国内での生産・販売拠点を増やしていった。
 コマツの海外進出の基本思想は、「現地での経営は、現地の人に任せ、日本人はそのサポートに徹する」ということである。そして、他の諸外国で行ったのと同様に、中国の拠点でも中国人に経営トップを任せたが、彼らは見事に大きな成果を挙げた。
 中国での経営は「コマツウェイ」という、全世界のコマツ経営の根幹をなす理念に基づいてはいるが、中国という国の特性にふさわしい方法で実践している。だからこそ、経営は現地トップに任せるのである。しかし、「よいモノをつくる」という、コマツの遺伝子だけは、どこの国であっても変えることはない。あくまでも、日本発の技術の種を各地に蒔き、それぞれの国で大きな花を咲かせようと努力を続けるのである。
 本書では明治維新後の日本の近代化の活動の中から、コマツの原点とものづくりに賭けた遺伝子を探り、第二次世界大戦後の復興を下敷きとし、その後に続くグローバル化の動きを、私自身が経験した事をベースにしながら、ものづくりとは何か? ビジネスとは何か? 会社とは何か? 世界はこれからどうなるか? どうあるべきか? などに対する私なりの答え出していこうと思う。この答えが正解かどうかはわからないが、読者の皆さんが、これらのことを考えるヒントにはなるであろう。
 さらに、私がこだわりを持ち続けてきた中国との関係に関しても、体験をベースにお伝えしていきたい。私は、極端な嫌中派でもないし、親中派でもない。中国という大国の可能性と現実の姿をできるだけ冷静に見つめ、日本と隣国である中国の相互理解に、私のできる範囲でのお手伝いをしたいと考えている。この考えは、コマツの社長在任中も、引退後の今も変わりがない。
 現在私は、日中交流和華会の会長として、日中草の根交流のサポートをしている。日本と中国に共通する文化、それぞれの国で花開いている素晴らしい文化を、お互いの国民が知ることで、両国の距離はもっと近いものになるだろう。そのような考えで、政府間の関係とは別の、民間レベルでの相互理解を深めることが、両国の未来にとってとても重要なことではないだろうか。
 長年企業経営に携わってきた私ができるのは、現在中国で企業を経営している人たち、そして、将来そのような仕事に就きたいと考えている人たちに、私の数々の経験から学んだことを、率直にお伝えすることだと考えている。

—–

 本博连续几次摘选分享了9月在中国出版的安崎会长的著作《夢を蒔く》(中文版由于中国出版方的主张书名由《播种梦想》改为:《机械巨人小松 无所畏惧的信念》)里的内容。
 摘选内容主要是与中国有关的部分,不过觉得有点杂乱,所以上上周一边考虑怎么理顺一边翻书,当翻到前言以及序章时猛然感觉“就是这里了!”。
 因此,今天继上上周发表的“前言”,接下来分享“序章”部分的内容。

百年小松,依旧年轻

 2021年,小松将在日本、也将在全世界的各个据点庆贺小松制作所创立100周年。2021年的小松会发展成什么样呢?我将翘首以待。
 人生之中,不可思议的缘分时而会不期而至,我的自身经历也足以证明了这一点。我进入小松的理由之一是出于希望从事与中国相关的工作这个念头。在我6年的大学生活里,除了第一外语英文,还需要选择第二门外语,许多同学都选了德语、法语、西班牙语等,而我却选了中文。在我儿时,与外祖父学习汉诗、三国志、水浒传等,这些文化深深引发了我的兴趣,成了我选修中文的理由之一。中文课由老师2人和学生6人组成,班虽小却充满家庭似的氛围,让我得以愉快地学习。记得一位老师如此说:“现在日本虽和中国没有外交关系,但是不久与中国的关系一定会紧密起来”,他的话大大激发了我的学习热情。
 就职的时期来临了,“小松是机械厂家,会有与中国做生意的机会”,这个期望成了我进入小松的动机。刚刚进入公司的时候,我有个梦想,就是天马行空地暗自想象着自己“成为北京事务所长”的前景。虽然这个梦想未能成真,以梦开始以梦结束,但是之后我在职业生涯之中却迎来了一个又一个转折点,终于开始从事与中国有关的事业。
 1972年9月,日中恢复了外交关系。第二年我向当时的河合良一总经理提出了“在中国建造推土机工厂”的建议。之后我多次访问中国、反复进行交涉工作、持续着小松与中方技术人员之间的技术交流工作。
 再往后,我于1995年就任总经理后,在中国设立了小松常林建机公司、小松山推建机公司、小松常林铸造公司,第二年又设立了小松(上海)有限公司,逐步增加了中国国内的生产以及销售据点。
 小松在进入海外之际的基本思想为:现地经营交与现地人员、日本人只负责业务支援。因此,和在其他各国的做法同样,我们在中国据点也任用中国人为经营上层干部,他们也不负厚望,努力工作、奋发图强、取得了极大的成果。
 中国的经营,也是建立在小松模式这个支撑起全球小松经营大厦的基本理念之上。不过在中国,却是采用了符合这个国家特殊国情的合适方法而得以实现。正因如此,中国的经营工作是全权放手交给当地选用的高层干部。然而,只有“制造优良产品”这个小松的遗传基因,无论在哪个国家也不会任其变异。归根结底,小松将日本的优良技术之种子撒播到世界各地,为了它们在被播下的国度里开花结果而坚持不懈地努力着。
 本书旨在从明治维新之后日本的近代化历程之中,探索萌芽于小松起点既产品制造活动之中的遗传基因,并以第二次世界大战结束后的复兴为铺垫,以我自己的亲身经历为素材,对随之而来的全球化动向进行解读。何为产品制造?何为商业?公司是什么?世界今后将何去何从、应该是什么样子?我将针对这些问题,力图给出我的回答。我的回答是否正确虽然不胜明了,但是想来对于同样会面对这些问题的读者而言,应该有所启示。
 此外,本书还将以我的自身经验为基础,阐述我常年以来尤为关注的中日关系。我关注中国这个大国的可能性及其现实状态、并愿为日本和邻国中国的相互理解做一些力所能及的工作。在我就任小松总经理期间以及在我引退后的今天,这个想法都没有丝毫动摇和改变。
 现在的我,作为日中交流和华会的会长,推行着一些日中草根交流工作。通过加深两国国民对日中共通文化以及两国多彩多姿异文化的理解,应该能够对缩短两国之间的距离做出一点贡献。基于这个想法,我姑且撇开两国政府之间关系这个难题,身体力行地致力于深化民间层次的相互理解这项对于两国的未来至关重要的工作。
 长年从事企业经营的我,愿向现在的中国企业经营者、以及希望将来也从事企业经营工作的读者们直抒胸臆,讲诉我从工作经验中所学之物。衷心希望对读者诸君能有些许参考价值。

—–