安崎暁先生を偲ぶ会が開催されました

2018年7月21日(土曜日)、安崎暁先生を偲ぶ会はご支援された日中交流雑誌「和華」編集長孫秀蓮さん主催によって開催されました。

小規模の会でしたが、参加者は安崎先生との思い出話をしたりして、日中国交正常化前から50年近く日中経済・文化交流の促進に力を尽くした日中民家交流家、日本経済及び社会に大きく貢献し国から藍綬褒章及び旭日重光章を受章された人物、12バージョン三国志を読んだスーパー三国ファン、引退後年間100回ゴルフを目標にしていた超行動派ゴルファー、去年晩期の癌が見つかり延命治療を拒否し12月に世界中の人々を励ました生前葬に当たる感謝の会を開催し、千人ほどの来場者と握手したりお別れの挨拶をされた非凡な安崎先生を偲びました。

安崎会長からの便り~癌との平和共存生活 日々是好日

安崎会長より、癌との平和共存生活を楽しんでいるとの嬉しい便りが届きました。ご同意を得たのでシェア致します。

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昨年12月11日に生前葬みたいな安崎 暁 感謝の会を催してから3か月以上が経ちました。

病院に通っての延命治療をやめましたので、医者の言う通り、私は昨年の内にこの世とはオサラバするものと覚悟していました。まさか新年を迎え今も生きているとは自分の想像外のことでした。

家内のケア、食事・免疫療法にある程度従い、自分としてもストレスゼロの癌との平和共存生活を楽しんでいるおかげかも知れません。胆汁をパイプで体外に排出し、痛みは薬で抑えながらの生活ですからまだ先のことは分かりませんが、食欲がある間は日々是好日と毎日を過ごせそうな気がしています。

食欲と言えば、81年の私の生涯で忘れられない食べ物の有難さの記憶が三件あります。

その一、1945年戦火の迫る東京から家族と別れて、学校ごと新潟へ集団疎開したその日に汽車の中で食べたこの世の別れのような母親手作りの“ラスク”の美味しかったこと。お互いに生きて再会しようという望みが詰まっていたのだろう。

その二、1984年胃と十二指腸潰瘍手術で胃の三分の二を摘出した時、脂肪太りのため手術が難しく時間がかかった。、全身麻酔からさめて、初めて口に入れた白湯の格別のうまさ。どんなご馳走も叶わない。

その三、1971年、冬のソ連出張時、野菜不足で慢性ビタミン不足。しおれた人参、ジャガイモ、玉ねぎの他は何もない、ないないづくしのモスクワ事務所の夕食時、アルメニアへの出張から帰ってきた商社駐在員が持ち込んできてくれたアルメニア大根1個、これを大根おろしにして皆で食べた。新鮮なビタミンの味。

世界中のご馳走を食べてきただが、この三つはどんなご馳走より忘れられない私のグルメの記憶である。

アルメニアの大根の話を当時の商社の友人と感謝の会で語り合った。
どこをどう都合したか、彼からアルメニアの大根ですよ、と私の自宅にこれが届けられた。45年前のビタミン補給の記憶とシベリア開発のプロジェクトに携わった商社の友人達との懐の深い付き合いを掛け合わせて大根おろしを美味しく味わった。
彼らのことを自他共に商社在籍の“コマチスト”と称していた。彼らのおかげでコマツの壮大なシベリア開発の事業が開けていった。

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最近收到安崎会长的来函,得知他与癌和平共处、愉快地生活着。征得他的同意,特分享如下。

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自去年12月11日我举办类似于生前葬的安崎暁感謝会之后,3个多月过去了。

那时因决定不去医院接受延命治疗,医生说我活不到来年,对此我已经做好了精神准备。然而我却不仅活过了新年、并且现在还活着,实在出乎自己的预料。

我在一定程度上遵从妻子的饮食、免疫疗法,也或许是自己能零压力地与癌和平共处、愉快地生活也见了效。现在胆汁通过胆汁管排出体外,疼痛通过止疼药抑制,虽说这样的日子前景难料,但尚有食欲的日子给了我“日日是好日”的感受。

提起食欲两字,我不由想起了在我81年的人生之中难忘的三宗可贵记忆。
其一是在1945年从战火迫近的东京和家人分开,随学校集体疏散去新潟的那天在火车上吃的母亲亲手做的有点生离死别味道的脆甜饼干,里面或许是饱含了母亲互相能活着再见的切切心愿,好吃极了。
其二是1984年在胃及十二指肠溃疡手术中被摘除了三分之二的胃之时,脂肪过多令手术时间延长。当我从全身麻醉中醒来,那入口的第一口白开水的特殊美味,令我感觉胜过世间所有的美味佳肴。
其三是1971年,冬季出差苏联之时,由于蔬菜不足导致了维生素的慢性不足。除了枯萎的胡萝卜、土豆和洋葱,几乎没有其他东西可吃。在这山穷水尽的莫斯科事务所,有天晚饭时,大家把从亚美尼亚出差归来的商社驻在员带回的1根亚美尼亚萝卜擦成萝卜泥,美美地享用了一餐。那新鲜的维生素的味道至今还口留余香。

虽然尝遍了全世界的美味佳肴,然而这三种美食却胜过任何美味,成了我一生难以忘怀、回味无穷的美食记忆。

在去年的感谢会上,我和当时的商社朋友还谈起了亚美尼亚萝卜的故事。
没想到那之后,不知道他费了什么周折竟将亚美尼亚的萝卜送到了我家。我将45年前补充维生素的记忆以及与参与西伯利亚开发项目的商社朋友们之间的深交记忆参合在一起,再次品尝了美味的萝卜泥。

他们都被称为、也自称为身在商社的“小松主义者”。承蒙他们的努力,小松壮大的西伯利亚开拓事业得以成功展开。

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安崎暁会長近況レポート~閻魔と大勝負の真っ最中

 末期肺癌、肝癌、胆囊癌にかかった本研究会の安崎暁会長が去年12月11日に千人位参加者規模の生前葬に当たる感謝の会を行ってから1ヶ月以上立ちました。

 放射線治療を断った安崎会長は、もっと一緒に行きたいという奥様のご期待に応じてご自宅で飲食療法を実践してきました。しばらく自宅静養を優先するために、数多い媒体やテレビ局からのインタビューや出演依頼は、大変申し訳なく断ってきました。

 そんな安崎会長ですが、ようやく1月下旬に入った頃、ご支援の日中交流雑誌創刊者の孫秀蓮さんからのインタビュー依頼に応じることに決めました。2月3日午後3時から、安崎会長がご自宅の階と違う階にある一室で2時間ぐらい孫さんからのインタビューを受けました。

 その前には待ち合わせるところで、ただ2ヶ月未満で車椅子なしでゆっくりですが普通に歩いている先生の姿を見て、インタービュアーの孫さん達はほっとする前にびっくりしました。放射線治療を拒否したのがなんて勇敢かつ英明なご決断でしょう!

 末期がん患者の復活の証人として、偉い精神力の証人として、彼を支える奥様の愛の証人として、20世紀日本の経済発展に大きく貢献された功臣が引退後、違う戦場で閻魔と戦いながら伝説的な人物になっていく過程のレポーターとしてこのレポートを書き、頂いた大きな力をシェアさせて頂きます。

私の信条-苦進楽愼

 引き続き、昨年9月に中国で出版された安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)の内容をピックアップして掲載いたします。

 今日は「苦進楽愼」という部分になります。これは、去年12月11日開催された感謝の会の入場券として参加者へ配布された『感謝』と題された手紙に載せてあります—「私の好きなことば」として、・・・『苦進楽慎 苦しい時はとにかく前進あるのみ。調子の良い時は浮かれずに用心しろ』・・・

苦進楽愼—苦しい時はとにかく前進あるのみ。調子の良い時は浮かれずに用心しろ

 両親の事を書いておこう。父親は、四国徳島の出身。幼少期に両親を病気で亡くし、父の姉と兄弟は大変苦労したという。それでも父は旧制中学校3年から、学費がいらない特待生となり、4年になるときに、これまた学費のいらない陸軍士官学校に入り、帝国軍人として勤務した。日中戦争に従軍し、終戦時に捕虜収容所に入れられ、終戦後しばらくして復員した。
 このころの日本では、一定以上の階級だった職業軍人は、連合軍の公職追放令に引っかかり定職に就くことができなかった。だから、私の少年時代の我が家は、貧乏そのものだったが、父親の口癖は、「金は天下の回りもの」。実にあっけらかんとしたものだった。
 母親は、四国阿波の徳島藩主の系統で、祖父、蜂須賀喜信の次女として生まれた。縁あって父と結婚した。昔であればお姫様に近い境遇だったであろうが、父の出征後に4人の子供を抱え、空襲を避け、疎開などの苦労の連続。父の復員後も、貧乏暮らしだったが、それを苦にする様子は見せなかった。子供の私から見ても、蜂須賀の家名を全くひけらかせず、父親第一の良妻賢母であった。私の幼少期には、父親の記憶はあまりないが、母親は、父親不在の戦時中でも、子育てが大変だったろうが、口には出さず、愛情深く、とても優しい母親だった。叱られた記憶は一切ない。
 父親は、公職追放令が解除された後、警察予備隊、保安隊、自衛隊と勤務。陸将になり、東北方面総監を最後に除隊した。現役のころ、陽明学者で思想家の、安岡正篤の会合に出かけ、彼の指導を受けていたようだった。私は社会人となってから、父の話で記憶していた安岡の名前を思い出し、彼の著書を何冊か読んだ。彼の論のすべてに感心したわけではないが、『百朝集』という本に「六然」という文を見つけた。
 中国の明時代末期の崔後渠という、王陽明と同時代を生きた学者で気節の人の言である
「自處超然 處人藹然 有事斬然 無事澄然 得意澹然 失意泰然」……自分に関しては、世俗にとらわれないようにすべし、人に対するときは、相手を喜ばせ気持ちよくさせるべし、何かをやるときは、すぐにやるべし、何もないときは、澄んだ気持ちを保つべし、得意なときでも、静かで安らかな気持ちを保つべし、失意の時でも、泰然自若と構えるべし。
という六つの「然」を並べ、「これができたら真の自由人である」と述べているのが気に入った。
 コマツの役員になったころ、この「六然」を思い出したが、なかなかこのようには過ごせない。それでも、あるべき理想の処世として、時に口ずさんでいたものだ。コマツのグローバル化を陣頭指揮するとき、これに似た「苦進楽愼」という言葉をどこかで見つけた。「困難には、とにかく前に進め、調子のよいときには、浮かれずに用心して慎重を期せ」という程度に理解した。普通はこの逆の行動をしやすいものだ。
 ピンチに動ぜず、バブルに浮かれずということを諭す「苦進楽愼」は、「自處超然 處人藹然」同様に、会社経営の節目、節目に私を鍛えてくれた言葉だ。

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继续摘选分享去年9月在中国出版的安崎会长的著作《夢を蒔く》(中文版由于中国出版方的主张书名由《播种梦想》改为:《机械巨人小松 无所畏惧的信念》)里的内容。
今日分享“苦进乐慎”部分。这也在去年12月11日作为感謝会入场卷发给参加者的题为“感謝”的信笺上也有记载—我喜欢的话・・・”苦进乐慎“ 在艰苦的时候只需顶风奋力前行,在风调雨顺之时反而要谨慎行事。不因苦境而停滞,不因顺利而飘然”・・・

苦进乐慎—不因苦境而停滞,不因顺利而飘然

想写写父母的事情。父亲出身于四国的徳島,幼小时候父母就因病故去了,父亲的姐姐以及兄弟都历尽了生活的艰辛。在那样的境遇中,父亲竟然也从旧制中学3年级时成为了免除学费的特待生、4年级时进入了至那时为止不需要缴纳学費的陆军士官学校,从而走上了帝国军人之路。后来日中战争爆发被征从军,战争结束后进了俘虏收容所,后来复了员。
 这个时期的日本,一定级别以上的职业军人遭遇了盟军发布的解除公职令、找不到固定的工作。所以,在我的少年时代,我们家极为贫困,然而父亲却有个口头禅:贫富无常,风水轮流转,金钱在天下人之间来来往往。
母亲出自四国阿波德岛藩主一族,是我的外祖父蜂须贺喜信的次女,随缘与我的父亲结了婚。在往昔,我母亲的生活如同公主般尊荣,然而在父亲出征后带着4个孩子、在躲避空袭、辗转疏散的颠沛流离的生活之中,接二连三地遭遇了各种各样的艰难险阻。父亲复员后的日子也极为贫困,但是母亲却从没有表现出被贫困击倒的样子。连还是孩子的我都能看出,母亲丝毫不曾炫耀自己蜂须贺家族的姓氏,是一位以父亲为天、以服务家庭为己任的贤妻良母。我的童年时代,几乎没有关于父亲的记忆,都是在父亲不在的战争时期,有关母亲的记忆。她为了养育孩子而历尽艰辛,但是却从不叫苦,对孩子倾注了深厚的母爱,是一位亲切平和的母亲,从来不曾呵斥我。
父亲的解除公职令获得取消后,先后供职于警察预备队、保安队、自卫队。之后升为陆将,最后升至东北方向总监,直到退役。父亲在现役时代,似乎曾参加阳明学者、思想家安冈正篤的会合,受过他的教诲。我成人进入社会之后,想起父亲话里说过安冈这个名字,便读了他的几本著作。虽然我并没有感服于他所有的理论,然而在《百朝集》一书中发现的“六然”却引起了我的共鸣。
那是中国明代末期的崔后渠,一位与王阳明同一时代的有气节的学者之言“自处超然 处人蔼然 有事斩然 无事澄然 得意淡然 失意泰然”……对待自己要超然达观,不要拘泥于世俗。对待他人,要和蔼可亲,令人愉快。做什么事情时,不要拖泥带水,要当机立断付诸于行动。无事的时候要保持清澈宁静的心态。得意的时候,要保持安静安宁的心态。失意的时候,要坦然自若。列出这样六个含有“然”的词语,他感叹“要是都做到了,就会成为一个真正的自由人”,这句话深深地打动了我。
在成为小松董事的时候,我想起了如此“六然”,然而生活中要做到这些可就太不容易了。但是,我将其作为理想的处世之术,时不时想起来就会哼唧念叨几遍。在引领小松走向全球化的时候,我又发现了与其类似的“苦进乐慎”这个词。我如此理解:“困难的时候,不管三七二十一,要奋力前行,一帆风顺的时候,则要加以小心,不要得意忘形,要谨小慎微。”。一般来说,若是老天把逆境或者顺境摆到我们面前,我们要反其道而行之。
“苦进乐慎”一词如此告诫我们,不要为眼前的危机而动摇,也不要因为胜利而充昏了头脑,它与“自处超然 处人蔼然”同样,让我得益匪浅,锤炼了我,让我在公司经营历程中跨越了一个又一个转折关头。

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「人間は自分が一番大切」?~ 社員や客先に対しての配慮の必要性

引き続き、昨年9月に中国で出版された安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)の内容をピックアップして掲載いたします。

今日は「人間は自分が一番大切」という部分になります。安崎会長によると、社員や客先に対しての配慮の必要性として、社長を退任するときに考えたということです。

人間は自分が一番大切?

この表題には反発を感じる人が多いだろう。「自分勝手はいけない」「世のため、人のために生きるのが人間」というのが世間の常識だろう。
人の一生を考えてみよう。誕生、祝福されて生まれた人が大多数。それでも子供は親を選べない。人生は、親から受け継いだ遺伝子を元に、自分の努力を加えて切り開くものだ。
教育もそうだ。学校が自分を選ぶのではなく、親か自分が学校を選ぶ。仕事も同じだ。人間の寿命は長くて100歳、棺桶に入る時、我が人生は面白かった、と思える人は幸せだ。どのくらいの人が、そう思えるだろう?
自分が一番大切と考える人生は成功とつながるか? 答えは多分NOだろう。それでも私がこの表題を最初に持ってきたのには理由がある。
社長に選任された時、退任した時、共に「人間は自分が一番大切なのではないだろうか」という感想を持ったからだ。
株主総会を経て、取締役会で正式に社長に選任された時、世界中の顧客、従業員、取引先の数を思った。この人たちに対する責任は重いなと。特に従業員、普通名詞の従業員ではなく、それぞれの顔を持った1人ひとりの社員、その家族の幸福のための責任の重さをズシリと感じたのだ。彼らは会社のために働くのか?
取締役会で私の退任と新任社長の選任を決めた時、就任時から6年経っていたが、頭の中に、またこの感想が蘇ってきた。
私は世界中で働いている社員たちが、会社の事業発展のために働いてくれていると、錯覚していなかったか? 彼らは、「100%自分のために働いている」と考えて経営した方が正解ではなかったか?
正直のところこの問題に対する自分の答えは引退後の現在も分からない。失敗も成功もある社長の仕事を振り返ると、失敗の原因は、大多数の世の人々が「自分を一番大事だと考えている」ことを忘れた意思決定、人事等にあるように思うからだ。
「事業は人なり」の言葉通り、人をよく理解することが人の活用につながる。

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继续摘选分享去年9月在中国出版的安崎会长的著作《夢を蒔く》(中文版由于中国出版方的主张书名由《播种梦想》改为:《机械巨人小松 无所畏惧的信念》)里的内容。
今日分享“首重自爱”部分。据安崎会长说,这是他在退任总经理之际的感悟,即是经营者必须关爱体谅员工以及客户,这样才能做出利于他们的决定以及人事制度等等。

首重自爱?

或许这个标题会引起许多人的反感吧,因为通常“不可任性妄为”、“人,应该为世界、为他人而活”才是这个世界的常识。
然而,想一想人的一生吧。多数人被诞下、被祝福而来到人世,然而孩子却无法选择父母。人生之路,是以继承的父母遗传基因为基本,加上自己的努力而拓展开来。教育也是如此,学校不是由自己、而是由父母选择。工作也不一定完全如愿以偿。人的寿命,至多也不过100来岁,在人生暮年、行将就木之时,觉得自己度过了有意义人生的人,才是幸福的人。那么,有多少人能如此想呢?
把自己摆在第一位的人,能走上成功的人生之路吗?回答可能是否定的吧。即使如此,我也将这个定作了本章最初内容的标题,为什么呢?理由如下。
因为,在就任总经理的时候、在退任总经理的时候,我都产生了“人,不是自己最为重要吗?”的感受。
经过股东大会,在股东会议上被正式选认为总经理的时候,我心里想着遍及世界各地顾客、从业人员、交易客户的数目,感觉到对这些人的责任之重。特别是从业人员,感觉到他们不是这个普通的名词表现的从业人员,而是一个个拥有不同面孔的员工、更感觉到我肩上担子里还有一份沉甸甸的他们家族的幸福。他们会为了公司而努力工作吗?
在股东会议上决定我的退任以及新任总经理人选的时候、从就任时开始已经过了6年,然而脑海里却重新浮现了这种感想。
全世界的小松员工们都在为公司事业的发展而努力工作,这是不是我的错觉呢?是不是认为他们“100%在为了自己而工作”才更有利于经营呢?
说实话,对于这个问题,直至今日我也没有得出明确答案。不过回顾自己既有失败也有成功、作为总经理的工作历程,我感觉到,失败的原因应该在于大多数的世人在做决策以及人事决定时都忘记了“认为自己最为重要”这个事实。
企业,以人为本。作为经营者,必须先做到设身处地为人着想、理解他人,才能吸引人才、拢住人心、才能人尽其才。

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