小松上海を設立~中国版新書からの抜粋

安崎会長の著作「夢を蒔く」)は、中国で「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名で出版されました。
著者のご友人である関 眞次先生は、本書が「小松製作所」を主人公とする「歴史産業経済大河ドラマ」だとコメントされています。
書名を「夢を蒔く」から「机械巨人小松 无所畏惧的信念」としようという中国側の主張も分かるようになってきました。

関 眞次先生が本書の後書きにこう書かれています▼
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小松製作所という建設機械メーカーの創業前から現在までの仕事をつぶさに見ることで、明治維新後の日本の工業化の進展、明治産業人の行動、戦後の混乱期からの復興、オイルショック・ドルショックによる混乱、バブル時代の好況、リーマンショックによる不況という、日本の産業史を改めて確認することができたことだ。
 これは、私にとって「小松製作所」を主人公とする「歴史産業経済大河ドラマ」ともいえるものであった。物語は江戸末期、黒船の来港で右往左往する人々の中で、果敢に黒船に乗り込んで談判した土佐藩の志士、竹内綱のエピソードから始まる。彼は、小松製作所の創業者である竹内明太郎の父であった。明治維新後、竹内父子は鉱山業を始め、海外の文献やお雇い外人から最新の知識を学び、それに日本流の創意工夫を加えて、さらに進化させていく…
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本書の内容を2か3週間おきにピックアップします。著者は現役時代、中国だけではなく、全世界を舞台にしていたのですが、中国での出版なので、主に中国にかかわる章節の内容をピックアップして載せたいと思います。

今日は、前回のピックアップ内容の続きになります。

小松上海を設立

 中国市場規模は、徐々に拡大し始めた。当初は、日本からの中古車の需要が多かったが、1990年代後半になると、新車の需要も拡大してきた。ちょうどこのころ、中国済寧の油圧ショベル、常林のホイールローダ工場で現地生産が開始された。まさに、タイミングはピッタリだった。今でこそ「世界の工場」と呼ばれるようになった中国だが、コマツの両工場とも、中国の国内市場用に建設され、輸出向けのものではなかった。シベリア、アフリカ、中近東などへの輸出や、コマツのグローバルネットワークを活用する工場間輸出が開始されるまでには、もう少し時間を必要とした。当面の狙いは、国内市場に焦点が当てられていた。
 コマツの中国での現地生産開始に合わせ、協力企業の団体である「みどり会」の工場も既に欧米やアジアでの現地生産の経験を積んでいたから、すぐに生産体制を作り上げることができた。
 中国での経営方針は、コマツが他の諸国に進出するときに採用している「コマツウェイ」に則ったものであった。つまり、経営は現地に任せ、物作りは日本流で進めるという進め方である。だから、経営トップは中国人、物作りは日本のマザー工場のやり方を見習ってもらった。
 多くの企業が、日本からトップを送り込んで、すべてを取り仕切り、現地は日本の指示待ちが当たり前という時代に、コマツは、中国人を経営トップに据え、派遣された日本人が支える方針を貫いていた。コマツウェイを基本とした海外進出は、世界共通の方針ではあったが、特に中国では、「中国人に経営を任せた方が、確実にうまくいく」と私自身の長年のビジネス経験が物語っていた。だから、確信を持って、この経営方針を採用したのである。技術を持ち、経験豊富な日本人幹部たちは補佐役に徹し、現地の人たちの教育に力を注ぐことで、中国人トップを支えてくれたこともありがたいことであった。
 1999年、中国建国50周年のイベントとして「FORTUNE(財富)500」が上海で開催された。世界中の大企業トップが上海に集まった。各国からのCEOを乗せてきた自家用ジェット機が上海空港を占領するくらいだった。日本からも30人のトップが参加した。
 私は、当時計画されていた西電東送、南水北調、西蔵鉄路などの西部開発プロジェクトの実情をこの目にしようと思い、雲南省昆明、陝西省西安、四川省成都などを回ってから上海入りをした。上海では、地方政府の書記、省長、副省長などの役職に、上海出身者が多く配転されていることに気がついた、彼らの中には、共産党幹部というより、有能な経営幹部という感じの人もいた。Fortuneセミナー in China

 私は、上海電視台(TV局)のインタビューを受けた。美人の司会者から「安崎社長は、中国通といわれています」と紹介された。「私は今まで、中国では大もうけしたことはありません。西部開発はコマツにとってBIGチャンスではありますが、中国は戦略家揃いですから、油断は禁物。大損をしないように気をつけます」とコメントしたら、聴衆は一斉に笑った。
 その後2000年には、済寧のショベル工場、常林のホイールローダ、トンネル機械、自動車用プレスなど、拡大していく需要に対応し、上海に傘型企業といわれる全体を統轄する会社を設立した。この会社の総経理には、中国人トップの王子光さんを据えた。彼の統括経営の腕の冴えは素晴らしく、数々のチャンスをものにし、ピンチを乗り切ってくれた。私が懸念した「大損」をすることなく、今日の繁栄を築いてくれた。彼は、コマツの中国ビジネスの立役者の一人であった。その彼も、2017年に後任の中国人にタスキを渡して引退した。心から「王さん、ご苦労様でした」とエールを送った。
 この2000年という年は、上海の株式市場開設、WTO(世界貿易機関)加盟の動きなど、中国経済が大変革を研げる節目のころであり、小松の中国事業にとっても、まさに変革の年であった。

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安崎会长的著作《夢を蒔く》(中文意思:《播种梦想》)以《机械巨人小松 无所畏惧的信念》之书名在中国出版了。

著者的友人関 眞次先生说,本书是一部以“小松制作所”为主人公的“历史产业经济大河剧”。
如此,对于中方出版社主张将书名从《播种梦想》改为《机械巨人小松 无所畏惧的信念》一事,也能理解几分了。

関先生在后记里这样写道:
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……通过深入细致地了解小松制作所这家建设机械制造商自创业前到现在的事业发展历程,得以重新确认了日本产业的历史,包括明治维新之后日本工业化的进展,明治时代产业人的行动、战后混乱期开始的复兴事业、石油冲击及美元冲击导致的混乱、泡沫经济时代的繁荣、雷曼冲击引发的经济不振。
这对我来说,可以说是以“小松制作所”为主人公的“历史产业经济大河电视剧”。故事发生在江户末期,在黑船来港、熙熙攘攘的人群之中,果断地登上黑船进行谈判的土佐藩志士竹內纲揭开了故事的帷幕。他,是小松制作所的创业者竹内明太郎的父亲。明治维新后,竹内父子开始了采矿事业,从海外的文献和雇佣的外国人身上学习最新知识,再加上日本方式的创意功夫,事业得以不停地发展壮大……
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现在,本博正在2或者3周一次,从这本新书里摘选、分享一些内容。
虽说著者的职业生涯舞台并非仅限于中国、而是整个世界,但是因本书即将在中国出版,因此着重摘选分享一些与中国有关的片段内容。

今天继上次,摘选、分享后续部分如下。

设立小松上海

中国市场规模渐渐开始扩大,最初对于日本中古车的需求较大,而到了1990年代后期,新车的需求也增长起来。此时恰逢中国济宁的液压挖掘机工厂以及常林的轮式装载机工厂开始了产品的现地生产,真是天赐良机。此时此际的中国虽然被称为“世界工厂”,但是这两家公司都不是为了生产出口产品,而是为了生产面向中国国内市场的产品而建。那时,向西伯利亚、非洲、中近东等方面出口、以及通过灵活运用小松的全球化网络进行工厂间相互出口,还未到时机。当务之急,是聚焦于中国国内市场。
 与小松在中国现地开始生产同步,由协作公司为成员的团体“绿之会”的工厂,也因为已经在欧美以及亚洲积累了现地生产的经验,所以很快确立了生产体制。
 小松在中国的经营方针,同样遵循小松在进入各国之时采用的小松模式。换言之,经营实行本土化,而产品制造则遵循日本模式进行。因此,经营高层为中国人、产品制造则让中方人员来日本见习母工厂的工作方式。
 那时许多企业都是从日本派遣上层人员去现地,让他们全面掌管现地企业的工作,现地遇事则翘首以待日本方面的指示。在如此做法被认为是理所当然的那个时代,小松就贯彻经营高层使用中国人、而让派往现地的日本人为后援的方针。小松模式是小松通用于世界的海外进出基本方针,尤其是我多年的从商经验证明,特别是在中国,“将经营权交与中国人,工作才会确实得以顺利进行”。我坚信这一点,因此将其确立为经营方针。让我庆幸的是,那些被派去的拥有丰富的技术及经验的日本人干部彻底扮演自己的辅助角色、将精力倾注于对当地人员的教育工作之中、出色地完成了支持当地中国人上层管理者的任务。
 1999年,作为中国建国50周年活动,“FORTUNE(財富)500”在上海召开。来自于世界各地的大型企业首脑们云集上海。载着各国CEO的私人直升机几乎占领了上海机场。日本也有企业领袖30人参加。
 我想看看当时计划中的西电东送、南水北调、西蔵铁路等西部开发项目的实际状况,于是游历了云南省昆明、山西省西安、四川省成都等地后才进入上海。在上海,我发现被任命为地方政府的书记、省长、副省长等职位的人,上海出身者为多。其中有些人,与其说是共产党干部,我感觉更是能干的经营型干部。
 我接受了上海电视台的采访。我被美女主持人如此介绍:“据称,安崎总经理是一位中国通”。“到今天为止,我在中国从没有赚得大钱。虽说西部开发对于小松是个大好机会,然而中国战略家云集,切不可掉以轻心。我一定要小心,以免亏得一塌糊涂”,我的发言让听众们一起笑了起来。
那之后的2000年,为回应中国市场对济宁的挖掘机工厂、常林的轮式转载机、隧道机械、汽车车身压床等产品日益增大的需求,小松在上海设立了一家控股公司,以全面统辖扇下企业。我安排中方高层干部王子光先生为这家公司的总经理。他拥有高超的统括经营手腕,抓住并活用许多机会,度过了难关,避免了我所担忧的“大亏”,为今天的繁荣昌盛打下了基础。他,是小松的中国事业的强有力推手之一。他也在2017年引退、将总经理之接力棒交给了他的后任中国人。我在心里向他送去了赞许:“王总,幸苦了”。
 2000年,是公司进入上海股票市场、也是中国呈现了加盟WTO(世界贸易机构)兆头等大事发生之年,值此中国经济在巨大变革中历练的转折性关头,于小松的中国事业而言,也正处变革之年。

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