中国との合作、合弁の開始~「夢を蒔く」(仮称)からの抜粋

安崎会長の中国語版著作「夢を蒔く」(仮称)の出版がカウントダウンに入りました。
本書は決して一個人のキャリア人生に限る内容ではありません。
著者のご友人である関 眞次先生は、本書が「小松製作所」を主人公とする「歴史産業経済大河ドラマ」だとコメントされています。
中国側の出版社が本の名称を変えたいという気持ちも少し分かってきました。

関先生は、本書の後書きにこう書かれています▼
——
小松製作所という建設機械メーカーの創業前から現在までの仕事をつぶさに見ることで、明治維新後の日本の工業化の進展、明治産業人の行動、戦後の混乱期からの復興、オイルショック・ドルショックによる混乱、バブル時代の好況、リーマンショックによる不況という、日本の産業史を改めて確認することができたことだ。
 これは、私にとって「小松製作所」を主人公とする「歴史産業経済大河ドラマ」ともいえるものであった。物語は江戸末期、黒船の来港で右往左往する人々の中で、果敢に黒船に乗り込んで談判した土佐藩の志士、竹内綱のエピソードから始まる。彼は、小松製作所の創業者である竹内明太郎の父であった。明治維新後、竹内父子は鉱山業を始め、海外の文献やお雇い外人から最新の知識を学び、それに日本流の創意工夫を加えて、さらに進化させていく…
——

前回のピックアップ内容は、日中国交回復、初訪中という話でした。
その続きの雨降って地固まる「中国との100日交渉」部分は、かなり面白いので気が早く6月25日に掲載してしまいました。
そのため、今日は引き続き「中国との合作、合弁の開始」という部分を掲載いたします。

本書の内容を2か3週間おきにピックアップします。著者は現役時代、中国だけではなく、全世界を舞台にしていたのですが、中国での出版なので、主に中国にかかわる章節の内容をピックアップして載せたいと思います。

中国との合作、合弁の開始

 技術提携契約が調印されると、すぐに中国側の手で工場が建設されることになった。いろいろ既存の工場を見て回ったが「帯に短し、タスキに長し」でなかなか適地が見つからない。最終的に決められた山東省済寧はさら地であったが、済南の空港に近いのでよい選択であった。それでもまだ道路は未整備。孔子誕生の聖地・曲阜経由で悪路を3時間かけて行かなければならない不便な場所であった。最近は、高速道路が整備されとても便利になった。
 我々は、中国側に対し「中国内の部品産業が未発達だから、国産化率を急に上げない方が良い製品を作れる」とアドバイスしたが、中国側は「日本から高価な部品を買わされるのはごめんだ」ということで受け入れられず、彼らは国内での部品生産を急いだ。その結果、我々の予想よりはるかに早く国産化率が80%以上になった。
 契約期間は5年。同時期にエンジンをアメリカのカミンズ社と技術提携していたので、まずまずの製品が国産化された。この製品は、まだ中国製の部品の品質に難点があったので、国際市場では競争力が弱かったが、輸入品の代替としては問題なかった。契約終了後の現在も、山東工程機械集団有限公司として、中国第一のブルドーザメーカーとして発展を続けているのはよかったと思う。契約期間終了後も、若干の部品は国内では生産できなかったので、日本からの供給を続けた。
 1980年代に入り、中国の工業近代化のためのインフラ建設が進展した。これが、中国国内の建設機械メーカーの成長を促した。ブルドーザはうまくいったが、油圧ショベルは戦国時代に突入した。中国政府は、重要性の高い自動車産業の、海外との合作は規制したが、重要度の低い小さい建機は特に規制せず、外資との合作を奨励する姿勢だった。
 私は、建機第三部長の後、本社の管理部長や国内営業本部の部長となり、4年間ほど海外との仕事から離れていたが、1985年に取締役となり、海外事業本部の副本部長となることで復帰した。しかし、このときはプラザ合意後の急激な円高対策、アメリカのアンチダンピング対策や欧米、アジアの海外建設に追われて、中国までは手が回らなかった。
 この間、コマツの中国市場作戦は調査ばかり繰り返し、新規事業の決断が遅れ、油圧ショベルとホイールローダの合作、合弁は手つかずの状況だった。数年後、私は経営企画室長になり、全社の経営戦略全般を担当することとなった。そして、グローバル化推進を加速することにした。
 関係会社事業の整理も、建機の競争力回復と同様に、大きな経営課題であった。エレクトロニクス事業は、開発競争のスピードが速く、シリコンウエハー事業などはコマツ向きではなくなっていた。例外は、メカトロ部品とエキシマレーザー事業だった。
 技術進歩、環境の変化が進むにつれ、私がやるべき仕事の負担が大きくなってきた。片田社長の後の社長を、引き受けざるを得ないかもしれない、と考えるようになったのはこのころである。そして、「なんとしても、グローバル大競争を勝ち抜かなければならない。社長になる前に、円高で打撃を受けた建機事業の競争力回復のための手を打っておきたい」と考えていた。
 私が見つけた課題は、建機事業の経営を「部分最適、全体不適」という状況から解放するということだった。開発、生産、マーケティングなどの部門の中で、それぞれの対策を考えるのではなく、事業全体として俯瞰し、経営判断していく体制を作る必要を感じた。このために、会社の中で最も重要な建機事業を、独立した事業部にしてみようと片田社長と相談し、建設機械事業本部を設立し、私が本部長として陣頭指揮を執ることになった。
 欧米、アジアのグローバル対策が一段落したところで、久しぶりに中国に出かけた。深圳、上海の発展ぶりには目を見張った。建機中古車の需要がどんどん増大していた。油圧ショベルの合作相手は、先述した山東工程機械集団有限公司に決めた。新車需要が増加してきたら、ブルドーザで培った生産能力、資金がものをいうと考えての決定だった。幸いなことに、ブルドーザのころの知り合いが同社で偉くなっていた。みんな私のことを知っているから、仕事はとてもやりやすい。
 このころ、サソリの天ぷらというものを喰わされた。うまくはないが珍しいものだ。そのうちに、サソリが刺身で出てきた。怖がらずに平気な顔をして食べたら、向こうも出さなくなった。それでも、現地では名物料理だそうだ。
 建機の中古車は、「PCを買う」という形で注文が来る。この呼び名はコマツに幸いした。客先は、日本製ショベルならどれでもいいと考えている。PCは、日本ではコマツのショベルのことを指すが、中国では油圧ショベル全体の代名詞となっているから、「PC」の注文は、必然的にコマツへの注文となる。
 中古車は「PC200」という中心機種に人気が集まった。日本で買い付け、中国に流される。このころ、コマツが始めたオークションが盛んになった。高値で競り落としていくのは中国のお客だった。中国のお客は、中東のお客と同様に買い付けの主役の座に躍り出た。その結果、日本のお客は、中古車を買えなくなり、新車を買ってもらうしかなかった。
 我々は、香港からの北上作戦を開始した。まず、中古車用の部品販売見本市を開催し、その開催広告を出すことにした。部品の需要はとても多かったのだ。会場に訪れたお客から中古車の注文を受け、日本から届けるという戦略だ。これを繰り返して、徐々に中国本土を北上して行った。最初は中古車の購入であっても、上客はその後に新車のお客となる。
 済寧の油圧ショベル新工場が完成したとき、私は、この工場の開所式に社長として臨み、「2000年に2000台生産、販売しよう」と中国語で挨拶した。内心では、ずいぶん野心的な目標だと思っていたが、実際には、2000台の期待が、2003年には2万台と10倍に膨らんだ。この後、市場は急減したが、予想以上に膨らみすぎたものがまともな水準に落ち着いたという方が正しい。
 やがて、中国での新車市場が爆発的に増加した。医者が建機を使う土建屋に転業し、油圧ショベルを買って大もうけしたという風評も流れるほどであった。「中国での需要は馬鹿にできないぞ」と、1993年の訪中で実感した。
 中国で国産する油圧ショベルのブランド名を機械にどのように表示するか悩んだ。これは中国ならではの問題であった。昔から「小松」ブランドはブルドーザにつけられて、名前が通っている。だから「小松」と漢字表記を主張する人もいた。一方で、グローバル化の時代だから、他の国と同様の「KOMATSU」とすべきだという声も強かった。最終的には私が「KOMATSU」と決定した。中国人も反対しなかった。今から思うと、これが正解であったと思う。「小松」のことを中国読みで「シャオソン」という人も多いが、ブランド名としての「KOMATSU」が堂々と通用するようになった。

—–

安崎会长的中文版著作《播种梦想》的出版进入了倒计时阶段。

这本书的内容绝不仅仅局限于一个个人的职业生涯。
借用本书著者的友人関眞次先生的话来说,本书是一部以“小松制作所”为主人公的“历史产业经济大河剧”。
如此,中方出版社想更改书名一事,也是可以理解几分了。
関先生在本书后记里如此写到:
——
……通过深入细致地了解小松制作所这家建设机械制造商自创业前到现在的事业发展历程,得以重新确认了日本产业的历史,包括明治维新之后日本工业化的进展,明治时代产业人的行动、战后混乱期开始的复兴事业、石油冲击及美元冲击导致的混乱、泡沫经济时代的繁荣、雷曼冲击引发的经济不振。
这对我来说,可以说是以“小松制作所”为主人公的“历史产业经济大河电视剧”。故事发生在江户末期,在黑船来港、熙熙攘攘的人群之中,果断地登上黑船进行谈判的土佐藩志士竹內纲揭开了故事的帷幕。他,是小松制作所的创业者竹内明太郎的父亲。明治维新后,竹内父子开始了采矿事业,从海外的文献和雇佣的外国人身上学习最新知识,再加上日本方式的创意功夫,事业得以不停地发展壮大……
——

现在,本博正在2或者3周一次,从这本新书里摘选、分享一些内容。
虽说著者的职业生涯舞台并非仅限于中国、而是整个世界,但是因本书即将在中国出版,因此着重摘选分享一些与中国有关的片段内容。

上次摘选、分享了“中日邦交正常化后首访中国”部分的内容。接下来的“不打不相交-和中国的百日商务谈判”部分因为读来太有意思,已经于6月25日摘选并分享过,因此今天就摘选其后续部分的内容。

开始与中国合作办厂

 签署技术提携契约之后,由中方立马着手建厂的事情就定了下来。不过转着看了好多现成的工厂,都是高不成低不就,找不到合适的地方。最终决定的地方在山东省济宁,虽然是一片未经整理过的空地,但是离济南机场较近,就选定了。然而,道路未经整修,去那里要经过孔子诞生圣地曲阜、花费3个小时,极为不便。最近,高速道路修好了,已经是今非昔比,非常方便。
 我们对中国方提议:“中国国内的零部件产业还不发达,不要急于提高国产化比率为好,如此才能制造出优质产品”,然而中国方面却说:“让我们从日本买高价零部件,那不行”,他们没有接受我们的建议,而是加快了在国内制造零部件的步伐。其结果是,国产化比率早早地达到了80%,远远超过了我们的预测。
 契约期间为5年。同一时期里,因中方也与美国康明斯公司进行发动机方面的技术提携,所以产品的国产化水平还算说得过去。不过由于使用的中国制零部件质量方面的弱点,此产品在国际市场上竞争力尚弱,但是在中国国内,替代进口产品却已经没有什么问题了。令我欣慰的是,在契约期间结束之后,到了现在,山东工程机械集团有限公司作为推土机厂家中国第一,依旧没有停下发展的步伐。契約期間结束后,有些零部件也因为中国国内还不能生产,而由日本继续供应。
 进入1980年代,以实现中国工业近代化为目的的基础设施建设也得以发展,从而促进了中国国内建設机械厂家的成長。推土机生产工作比较顺畅,然而液压挖掘机却进入了战国時代。中国政府对于特别重要的汽车产业与海外的合作方面制定了严格的规章制度,但是对重要度较低的建机却不设规制,对他们与外资的合作反持奖励的态度。
 我从建机第三部长位置先后调任总公司管理部长、国内营业本部部长、约有4年左右从事与海外业务无关的工作。但是在1985年成为董事、就任海外事业本部副部长而再次从事海外工作。然而,这个时期我由于对应广场协议引发的日元升值、美国的反倾销对策以及欧美、亚洲的海外建设事业而忙得团团转,无暇顾及中国方面的事情。
 在此期间,小松在中国市场仅是反复实施调查,对于是否开拓新事业犹疑不决,液压挖掘机以及轮式装载机的合作、合营也无从着手。几年之后,我在就任经营企划室长,全面负责整个公司的经营战略之后,决定加速推进全球化事业。
 此时,整理关联公司的事业、以及重振建机竞争力,都是巨大的经营课题。电子事业方面,随着开发竞争的加速,小松已经对硅片事业力不从心。不过也有例外,那便是机电组件和准分子激光事业。
 随着技术的进步、环境的变化,我感觉到自己肩负的责任也在增大。那个时候我想到,也许不得不接片田总经理的班,担任下一任总经理。因此,我考虑到“无论如何,必须从这场全球化大竞争中胜出。在成为总经理之前,先采取措施,重振被日元升值打击的建机事业竞争力”。
 我发现首先需要解决的课题,是将建机事业的经营体制从“部分最适、全体不适”这个不良状況解放出来。我认识到,不能从开发、生产、营销等各个部门的角度单独去考虑一个个孤立的对策,而是必须通过俯瞰整个事业进行经营判断、健全经营体制。为此,我想到了将公司里最重要的建机事业做为一个独立的事业部分离出来,于是我与片田总经理商量后,设立了建设机械事业本部,我作为本部长坐镇前沿,指挥工作。
 欧美、亚洲的全球化对策告一段落之后,我出差去了久违的中国。深圳、上海发展迅猛,其巨大的变化让我膛目结舌。建机中古车需求快速增大。液压挖掘机的合作伙伴定为前文提及的山东工程机械集団有限公司。之所以如此决定,是因为考虑到新车的需求增加后,推土机事业中成长起来的生产能力及资金都可大大排上用场。幸运的是,从事推土机事业时代结识的人都已在公司里身居要职。大家都了解我,因此工作做起来是得心应手。
 那时,我被款待吃了蝎子天妇罗。味道不怎么样,但是罕见珍贵。过了一会,生的蝎子肉也上桌了。我脸不改色地吃了,对方也没有再上这道菜。据说在当地,那是一道名贵菜肴。
 建机的中古车,订单是以“买PC”的形式发来。这个名称给小松带来了幸事。客户用它表示需要挖掘机,只要是日本制就行。在日本,PC专指小松的挖掘机,在中国却泛指所有的液压挖掘机,所以中方记载“PC”的订单就成了订购小松机械的订单。
 在中古车里,主要是“PC200”这个机种受到众多客户的喜爱,客户到日本购买后、运到中国转卖。那时,小松开始的拍卖活动甚为红火。出高价拍下商品的都是中国客户。中国的客户,与中东客户同样,都跨进了采购主角之列。在日本,小松的客户也分为购买新车、购买中古车两种,而中古车拍卖价格由于外国买家的参入而上涨。结果,造成日本的中古车买家们低价购车的打算落空。好在日本市场的新车价格,在激烈的竞争中被压低,从世界范围来看新车价格也偏低, 因此这些想买中古车以节约经费的日本客户如意算盘落空,只好加点钱购买新车。
我们开始了从香港开始的北上作战。首先决定了举办用于中古车的零部件销售展览会,并为此发行举办展销会的广告。因为零部件的需求极大,因此计划在会场接受来场客户的中古车订单,从日本发货。这项活动不停地进行,慢慢地在中国本土从南朝北推进。虽说客户最初会购买中古车,但是之后,其中也有上宾会转向购买新车。
济宁的液压挖掘机新工厂建成之后,我作为总经理出席了这个工场的开幕式。我在开幕式上用中文致辞说:“让我们到2000年生产并销售2000台”。我当时心想这个目标的野心有些大了,然而实际产量却远远超过我所期待的2000台,2003年产量膨胀10倍,高达2万台。那之后,市场需求急速减低,不过从当初的预测来看,这只是膨胀过度的产量回复到了正常水准而已。
不久,中国市场对于新车的需求爆发式地增长起来,甚而有医生转向土木建筑业、购入液压挖掘机发了横财之类的传闻。这验证了我在1993年访问中国时的切身感受:中国的市场需求不可小觑。
在中国国产出来的液压挖掘机上,品牌名如何表示是件令人头疼的事情。这也是在中国才会出现的问题。以前在推土机上表示的品牌名是“小松”两个汉字,易于理解接受。因此,有人主张液压挖掘机也用“小松”两个汉字。然而,主张在全球化时代,与其他国家一样使用“KOMATSU”的声音也很响亮。最终我决定了使用“KOMATSU”,中国人也并没有反対。到今天想来,这个决定是正确的。如此以来,虽然“小松”在中国还被很多人读为“XIAOSONG”,但是作为品牌名的“KOMATSU”也被叫响、堂堂正正地通用开了。

—–




この投稿のTrackback URL

コメントを残す